じじぃの「人の死にざま_25_市川・房」

市川房枝 - あのひと検索 SPYSEE
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映画『八十七歳の青春』〜市川房枝生涯を語る〜 動画 YouTube
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市川房枝 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
市川房枝は日本の婦人運動家、政治家、元参議院議員。愛知県中島郡明地村(後の尾西市。現在は一宮市)生まれ。戦前・戦後の日本の婦人参政権運動(婦人運動)を主導した。1981年(昭和56年)2月に尾西市(現在の一宮市)の名誉市民となる。1981年(昭和56年)参議院永年在職議員表彰を受ける。
【経歴】
愛知県中島郡明地村に農家の3女として生まれる。愛知県女子師範学校(現在の愛知教育大学の前身)在学中に、良妻賢母教育に反対して同級生と授業ボイコットを実施し、後の婦人運動家としての活動を予感させた。
卒業後は愛知県内の訓導として勤務したが病気のため退職。1917年(大正7年)名古屋新聞(現在の中日新聞)の記者となった。1919年(大正8年)に平塚雷鳥らと日本初の婦人団体新婦人協会を設立。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開。1924年大正13年)「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。男子普通選挙が成立した1925年(大正14年)には同盟会を「婦選獲得同盟」と改称し、政府・議会に婦人参政権を求める運動を続けた。1924年には国際労働機関(ILO)の職員となり、女性の深夜労働などの実態調査を行った(1927年(昭和2年)に辞職)。
1930年(昭和5年)に「第1回婦選大会」を開催。同年に婦人参政権公民権)付与の法案が衆議院で可決さるが、貴族院の反対で実現に至らなかった。他に汚職反対・母子保護・生活防衛などを目的とした様々な運動に関わった。
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国会内では政党に属さず、無所属議員の集合体である第二院クラブに所属して活動を行った。1967年(昭和42年)の統一地方選挙では東京都知事選挙美濃部亮吉を支持。その一方石原莞爾を「高潔な人格者」と高く評価したり、1963年(昭和38年)結成の「麻薬追放国土浄化同盟」では、右翼の大物と目されていた田中清玄や暴力団山口組組長の田岡一雄などとも協力するなど、ある種の柔軟性も備えていた。
1980年(昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙では、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たしたが、1981年(昭和56年)に心筋梗塞のため議員在職のまま死去。死去の2日後、参議院本会議では市川への追悼演説と永年在職議員表彰がともに行われた。また、同年に出身地愛知県尾西市の名誉市民となった(尾西市一宮市と合併後は、一宮市の名誉市民となっている)。
現在、国立国会図書館には、市川が1978年(昭和53年)に語った「政治談話録音」が収録されている。7時間に及ぶ長いもので、30年後の2008年(平成20年)に公開されるはずであったが、市川房枝記念会等の要望により期限前に公開された。現在、国立国会図書館にて、テープの視聴、および、テープから文字起こしをした「談話速記録」の閲覧、複写が可能である。
【関係者】
菅直人は、1974年(昭和49年)の参議院選挙で市川の選挙スタッフを務め、1976年の第34回衆議院議員総選挙に無所属で出馬したが落選。後に江田三郎に誘われ社会市民連合へ参加した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
市川房枝 (1893-1981) 88歳で死亡。
貧しい農家の娘に生れ、父に薪でなぐられる母を見て育った市川房枝は、長じて婦人運動のリーダーとなった。晩年「こんど生まれてもまた婦人運動をやりますか」と訊かれたとき、二コリともせず、真顔で「こんどは男に生まれます」と答えた。
若いころからまったく色気とは縁がなく、自分でも「若いときもし美人だといわれたら、私の人生は変わっていたかも知れないね」といっていた市川房枝だが、不思議に老いて銀髪となってから美しいといわれ、昭和54年86歳のとき、女性雑誌「クロワッサン」が行った読者の「好きな女のベスト30」に、2位の山口百恵を倍以上引き離してトップになった。まったく俗念のない一徹さと気品が人々を魅したのである。
政界浄化に挑む女ドン・キホーテとして、昭和55年の参院選挙でもトップの278万票を獲得したが、翌年1月16日午前胸痛を訴え、本人は騒がないでと遠慮したが救急車で日赤医療センターに運ばれ、心筋梗塞の診断を受けた。
いちじ回復のきざしも見え、27日には病院の窓から白雪をかぶった富士山を遠く眺めて「富士山ってこんなにきれいだったかしら」と、つぶやいて七分がゆを食べた。
が、その翌日未明からまた病状悪化して危篤状態におちいり、特別編成の8人の医師団が「必死で操縦桿をあげようと」(医師の1人の言葉)努力したが、2月10日、食べたプリンを吐いたあとは絶望的となり、11日午前7時3分死亡した。
病理解剖の結果、心臓の下部を中心に心筋梗塞が見られ、ほかに強い肺水腫、腸内出血が認められた。
「化粧したのは昭和3年にいちどだけ」とみずから語った市川房枝の唇に、看護婦たちの手で口紅が塗られた。とにかくこれだけ愛されたばあさんは、ほかにいない。

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『徹子 ザ・ベスト 』 黒柳徹子/著 講談社 2011年発行
私の仕事は、「人に何かを伝えること」 (一部抜粋しています)
私が滞在していた頃の、1970年代のアメリカは、ちょうど、フェミニズムが台頭していました。女性活動家たちは、精一杯頑張っているんだけど、そのせいで、女性らしさがない人も大勢いて、私は、「あんまり頑張ると、そのうちに男の人みたいになっちゃうのかな?」と不安になったりもしました。強く出ないと、物事が通らなかった時代だったんでしょう。日本の女性の社会活動家も、市川房枝さんによると、「もの言うと口から黄色い火をはく」って言われたって。でも市川さんは、後年三宅一生さんの洋服をお召しだったり、しゃれたかたでした。でも市川さんは、晩年にこんなことをおっしゃってました。「私は若い頃から婦人参政権を得るために闘ってきました。今、選挙に行くのは女性の数が多いの。でも、政治は良くならない。自分のやってきたことは、間違っていたんだろうかと思うこともあります」って。そうおっしゃったときの市川さんは、どこか寂しそうでした。

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財団法人市川房枝記念会ホームページ
http://www.ichikawa-fusae.or.jp/
市川房枝の言葉
母の女の悲しみが、私の小さな体にしみついた。私の長い人生は母の嘆きを出発点に選んでしまったようである。
平和なくして平等なく、平等なくして平和はない。
誠実、正直、権利の上に眠るな。