じじぃの「人の死にざま_708_山本・有」

山本有三 - あのひと検索 SPYSEE
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三鷹市山本有三記念館 - 地域情報動画サイト 街ログ 動画 YouTube
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路傍の石」について
http://www7.ocn.ne.jp/~ta-ko/robo-no-isi.htm
山本有三 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山本有三は、日本の劇作家、小説家、政治家である。本名は山本勇造。日本芸術院会員、文化勲章受章者。
戦後、貴族院勅選議員、参議院議員などを歴任した。
【略歴】
呉服商の子として、現在の栃木市に生まれる。
1909年(明治42年)9月一高入学。一高を1年落第を経て卒業し、東京帝国大学独文学科に入る。
一高時代落第後に同級となった菊池寛芥川龍之介らと文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。だが、昭和に入ると、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』の連載中止に追い込まれるなど軍部の圧迫を受けた。その一方で近衛文麿と親交(一高留年前の学年で同級)があり、1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員に選ばれるなどその立場は複雑であった。
戦後は貴族院勅撰議員に任ぜられ、国語国字問題に取り組み、「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年に第1回参議院議員通常選挙では全国区9位で当選。1953年まで6年間、参議院議員をつとめて緑風会の中心人物となり、政治家としても重きをなす一方で積極的な創作活動を行った。1965年、文化勲章受章。
東京都三鷹市に、山本有三記念館がある。また、栃木県栃木市には、山本有三ふるさと記念館がある。
路傍の石
路傍の石』(ろぼうのいし)は、山本有三の代表的な小説である。1937年に『朝日新聞』に連載。翌1938年には『主婦の友』に「新篇」として連載。しかし、当時の時代背景の影響(検閲など)もあり、1940年に山本は断筆を決意。最終的には未完に終わった。
東京帝國大学でドイツ語を専攻した山本は、当時ドイツで流行した教養小説の影響を受けてこの作品を書いたとされる。大正期の社会主義個人主義の対立を背景に据えていることも、重要なポイントである。
近年では、いわゆる機能不全家族アダルトチルドレン)との関連で、一部で再び評価されつつある。
戦前、戦後を含め4回に渡り映画化された。
主人公の愛川吾一の生き様は、山本自身の生い立ちと重なる部分も多いが、本人はそれを否定しており、実際、細部において山本の生き方とは異なる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
山本有三(やまもとゆうぞう) (1887-1974) 87歳で死亡。 (一部抜粋しています)
『真実一路』『路傍の石』などで知られる山本有三は、昭和49年1月4日、湯河原の自宅で急に高熱を発し、5日救急車で国立熱海病院に入院した。
彼は前年「毎日新聞」に、彼のよく知っている故近衛文麿を描くべく「濁流――雑誌近衛文麿」を連載しはじめたが、途中息切れがして41回で中断した。しかしなお続稿の意志を失わず、この入院にあたっても、
「今ここで死んでたまるか7日くる」
と詠み、救急車を待たせて、病院へ持ってゆく資料を探している始末であった。
7日は1月7日の季語だが、それにしてもこんな句を詠むとは山本有三らしくもない。
入院後は熱も下がり小康を得たが、10日の午後、烈しい咳が出はじめて1時間もとまらず、
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やがて咳はおさまったが、夕刻から気管支炎を起し、また高熱が出、翌11日午前5時、心不全のために死亡した。
遺書により、山本有三は戒名をつけられなかった。

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