じじぃの「人の死にざま_23_松下・幸之助」

松下幸之助 - あのひと検索 SPYSEE
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松下幸之助 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=8G2sRo0lib8
松下幸之助 ウィキペディアWikipedia)より
松下幸之助(1894年〈明治27年〉-1989年〈平成元年〉)は、日本の実業家。公職追放者。
パナソニック(旧社名:松下電器産業松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた日本屈指の経営者で、経営の神様とも、関係者からは社主とも称された。
自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。
94歳で死亡。

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プライムニュース 「松下幸之助(経営者)の“成長とイノベーション”」 2015年5月7日 BSフジ
【キャスター】秋元優里、反町理 【ゲスト】野田佳彦(前内閣総理大臣 民主党最高顧問 衆議院議員)、渡部昇一(評論家 上智大学名誉教授)
戦後、驚異的な高度経済成長を遂げた日本。その立役者の一人が松下幸之助だ。“経営の神様”と称されたその手腕は自社の発展のみならず、松下政経塾などを通じ、日本の将来を見据えた人材の育成にまで、惜しみなく注がれたという。
では、次の段階への一歩を踏み出せずにいる平成のいま、松下幸之助の遺した「教え」や「哲学」の中に活路はあるのか?
松下幸之助の教えを検証し、成長のカギと企業が社会に果たすべき役割、今後の日本のかたちを考える。
野田、「信長は『鳴かぬなら殺してしまえ』と言った。秀吉は『鳴かせてみせよう』と言った。家康は『鳴くまで待とう』と言った。経済誌がどれを選ぶか3択で聞いた時に、昭和40年代の企業経営者で3択で答えなかったのは松下幸之助本田宗一郎だけだった。松下幸之助は『鳴かぬならそれもなおよしホトトギス』と言った。人材を有り難いと思っている」
提言 「今、松下幸之助に学ぶべきこと」
野田 「素志貫徹」
 常に志を抱きつつ懸命になすべきをなすならば、いかなる困難に出会うとも、道は必ず開けてくる。成功の要諦は成功するまで続けるところにある。
渡部 「学校の成績万能でない知力がある」
 松下幸之助は学校の成績はよくなかった。世の中には採点できない頭もある。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150507_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d150507_1
『世界に誇れる日本人』 【著】渡部昇一 PHP文庫 2007年出版 (一部抜粋しています)
アリストテレスプラトンと肩を並べる哲人
この本の出版元であるPHP研究所松下幸之助研究の本家本元だから、その生涯などについて私があれこれいうことではないだろうが、松下幸之助の理念を簡単に紹介すると、「Peace and Happiness through Prosperity=PHP」である。
ピース・アンド・ハピネス、すなわち「平和と幸福」は、どの宗教でも教えることだ。そして極端にいえば、ピース・アンド・ハピネスはハシシュでもアヘンでも得ることができる。ところが、宗教には入ってこないプロスペリティ、すなわち「繁栄」という世俗的な要素で、平和と幸福を得るとしたところが、松下の独創性である。世界中を探せば他にいるかもしれないけれど、私の知るかぎり、PHPのような形ではっきり意識して説いた人はいない。
かって『タイム』誌が表紙に松下幸之助を載せたときに、「フィロソファー」という言葉を使った。これを「哲学者」と訳すと学者のような感じがして語弊があるので、私は「哲人」としたい。実際、世界の物差しでみると「スルー・プロスペリティ」(繁栄を通じて)といった松下は、アリストテレスプラトン孔子と肩を並べる哲人と見ていいと私は思う。
その洞察を得るきっかけが天理教を見たことだったというのもおもしろい。昭和7年のこと、松下が天理教のお膝元に行ったら、別に報酬をもらうわけでもないのに、みんなよく働いていた。そのことに松下幸之助は大いに驚いたのだという。なぜそこで、そんなにみんなよく働いていたのかといったら、後生のためだと考えるのが普通だ。だが、松下は違ったようである。無報酬であれだけ働かせることができるのはなぜか、事業家としてピンとこなかったのだろう。現在のように、自己実現のために一生懸命になる時代ではなかったし、お金を払ってもなかなか働かない人が多い時代だった。
とにかく松下幸之助は落ち込んで帰った。そして、悩んだ末に達した結論が「繁栄」だった。死んでからのことは宗教のいうことを信用するより他にしようがないけれども、この世で繁栄すれば、家庭をつくり、子どもをつくり、教育もできる。精神の豊かさと、物質の豊かさは車の両輪のようなものであり、物心ともに豊かな真の繁栄を実現していくことによって、人びとの上に真の平和と幸福がもたらされるのではないだろうか・・・・。
そう考え、意気をあげた松下は、当時の全店員を集め、「生産活動を通じて、水道の水のごとくすべての物質を無尽蔵たらしめ、世の中から貧を除くという使命に邁進しよう」と訴えた。これを聞いた店員たちは、みな大いに感奮し、次々に所感を述べあったという。松下電器産業の「産業人タルノ本分ニ徹シ、社会生活ノ改善ト向上ヲ図リ、世界文化ノ進展ニ寄与センコトヲ期ス」という網領がまとめられたのもこの年のことである。
心学的な考えの人が多い日本人
また終戦直後には、当時の混乱した世相を背景に、「自然界に生きる鳥や獣は嬉々として飛びまわっているのに、万物の霊長といわれる人間が、なぜこれほど不幸に悩み、貧困に苦しまなければならないのか。人間はもっともっと物心ともに豊かな繁栄のうちに、平和で幸福に生きることができるはずだ」との想いから、「繁栄を通じた平和と幸福の道」を研究すべくPHP研究所を創設している。
いわば松下は、繁栄というものを理念として宗教のレベルまで上げたのだといってよい。世界の実業家にはいろいろな人がいるが、宗教に競争心を持った実業家は松下幸之助以外に見あたらない。
松下はそのように唱えながらも、それを実現する手段として「教義」というものをもってこなかった。これは心学の系統だと考えていい。
心学の一つの流れとして、差別意識がなく、大衆化を意識するところがあることは先にも少し述べた。江戸時代の心学は、隅っこで町人を集めて聴講無料で話すというようなものであったが、そのような流れを確かに松下も受け継いでいるといっていいだろう。前衛だとか教条的なごり押しというところがなく、「納得しましたか?」である。そしてそれぞれでヒントを得れば、人の道がひとりでに常識の線で浮き上がってくると考えるのである。

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『VOICE』 5月号より
松下幸之助箴言 〜市場が冷えても需要は無限 北 康利
昭和40年7月に日本生産本部第8回軽井沢トップ・マネジメント・セミナーで行われた彼の講演は、まるでいま、彼がよみがえってきてわれわれに話をしているかのように生々しい。
「いままで不景気なことに何べんも直面いたしましたけれども、本質的には今日ほど深刻な経済界の姿というものは、私といたしましては、かって味わったことがないと申していいと思うんであります」
「政府は次々と衆知を集めておやりになるでしょうが、大きく期待できないということを、われわれ経済人は覚悟しなくてはならない」
「政府を頼んではならない。経済界自体において、ある程度これを挽回するという方策を、お互いの所産として生み出さねばならんのではないかと考える次第であります。そうして、この不況の状態をいろいろな改革の転機にいたしまして、さらに一大躍進をしていくことができないのかどうか、ということを真剣に考えるべきやないか」
「もうだれも頼まないというように心の転換をすることが、きわめて大切やないかという感じがいたします」
「この不況、過去の実績を反省して、さらに勇猛邁進して、今度は正しい方向にもっていくことができるか。あるいは過去の足りなかったことを反省し、さらに実態を知って悲観して、勇気を失うか。この二つの境目だという感じがします。そういう観点に立って、今後見ていかなければならんと思うんであります」
そして筆者がいちばん感動したのが次の言葉である。
「私は需要というものは無限と考えていいと思うんです」
この言葉を前にすると、市場環境が悪いから、需要が冷え切っているからと言い訳する気が起こらなくなる。
希望を抱かせるとともに、たいへん厳しい言葉でもある。

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松下幸之助訒小平の「君子の約束」(1) 2008-11-03 チャイナネット
1978年10月28日、小雨の降るこの日、政界と経済界の二人の巨頭の手がしっかりと握られた。一人は改革開放の総設計師である訒小平、もう一人は経営の神様と呼ばれる松下幸之助である。
最も早く中国に進出した外資系企業として、松下電気産業は中国の改革開放の歴史をその目で見てきた。30年前の二人の年配者の「君子の約束」は、いまでもそう語られている。
訒小平 「教えを請う姿勢で参りました」
松下 「何であれ、全力で支援するつもりです」
1978年10月、当時、国務院副総理の訒小平は日本を訪問した。この訪問の重要な目的は、日本企業の近代的な生産の様子を視察することだった。
訒小平にとって、近代化とはまず電子工業化である。だが、当時の中国は、自動車生産の電子化は言うまでもなく、家電生産もまだ手作業の段階にあった。テレビや冷蔵庫、洗濯機は三種の神器と呼ばれ、庶民は購入するのに順番を待たなければならなかった。
訒小平のこの訪問に、日本の一人の伝奇的な人物がずっと強い関心を寄せていた。日本産業界で「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助である。
松下幸之助に、訒小平も強い興味を抱いていた。視察に訪れた3番目の工場は、松下電器産業の大阪・茨木にあるテレビ工場だった。
1978年10月28日、83歳の高齢で、すでに「第二線に退いていた」松下幸之助は小雨の中、工場の正門で訒小平を出迎えた。
松下電器産業の当時の映像資料を見ると、訒小平は階段を上る際、後方にいる松下幸之助に手を差し出した。そのあともかなりの間、二人の手は握られたままだった。そして、訒小平が別の手を握ると、松下幸之助訒小平にお辞儀をして謝意を表した。
その後、訒小平はカラーテレビや高速ファクシミリ、漢字プログラムシステム、ビデオカメラなどの製品を視察。ゆっくりと回ったのは、製品の生産過程を詳細に見るためだった。
従業員が当時のハイテク製品・レンジを紹介。わずか数秒で1個のシュウマイが湯気をたてながら出されたのを見て、訒小平はすぐに手にとり口に放りこんだ。
訒小平のこの動作に、松下幸之助は思った。この中国の指導者は実に人間らしい、表面をつくろうことをせず、試食までしてくれた――。
松下電器産業との会談で、訒小平は当時の中国の立ち遅れた現実を忌憚なく語った。「私たちはほんとうに教えを請う姿勢をもってあなた方とお会いすることにしたのです」
さらに訒小平は「中国はこれまで対外債務はなく、国内債務もなく、非常に誇りに感じています。今後、私たちは近代化しなければならず、自力更生のもとに、外国の技術や資金を導入することにしています。電子工業がなければ、近代化は実現できないので、あなた方の電子工業を私たちの方に持っていきたいと思っています」と語った。
その率直さに、松下幸之助はいっそうの親しみを感じた。だからか、訒小平が「松下老翁、中国の近代化建設にお手伝いいただけますか」と問うと、松下幸之助は即座に「何であれ、全力で支援するつもりです」と答えた。これを聞いた訒小平は満面笑みを浮かべ、結構なことだと何度もうなずきながら、松下幸之助に中国訪問を招請し、松下幸之助は喜んで受け入れた。
喜びここに至り、訒小平は日本の友人の要望にこたえ、茨木工場の記念冊子に題字を寄せた。「中日友好前程似錦(中日友好の前途は洋々たり)」
http://japanese.china.org.cn/jp/qshn/2008-11/03/content_16703605.htm
パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館 Panasonic
http://panasonic.co.jp/rekishikan/