THE BUDDHA coming to PBS April, 7th, 2010 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YDMhN-mcTi0
ハイビジョン特集 五木寛之 21世紀・仏教への旅(1) インド 2007年放送 NHK HI
【出演者】五木寛之
ブッダは80歳のとき400キロに及ぶ最後の布教・伝道の旅に出た。旅の中でブッダはいかに老いを受け入れ、病に耐え、死を迎えたのか。「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」にその時の様子が克明に記されている。この経典を手に、インドの大地を旅するのは作家・五木寛之。己の人生と重ねながら、ブッダの最期に至る道をたどる。経典に残されたブッダの言葉の数々に耳を澄ませ、最後に何を伝えようとしたのかを探っていく。
http://www.nhk-ondemand.jp/program/P200800007000000/#/0/0/
次回の知ってるつもり?!
2002/03/17 放送 「〜人間・釈迦〜 ブッダの大いなる真実」
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林住期 五木寛之 幻冬舎 2007年出版 (一部抜粋しています)
インドにふたたび呼ばれて
インドへ行かないか、という話が舞い込んできたのは2005年の春だった。あれよあれよというまにスケジュールが決まり、気がついたときにはエア・インディアの機内にいた。
考えてみると23年間ずっと縁がなく、今になって急にそんなことになるのも、それなりの「風」が吹いているのかもしれないと思う。
23年前といえば、私が50歳前後のころだ。
そのころと今とでは、私自身もずいぶん変わっている。そしてまた時代も変わった。
ちょうどいいころあいを見はからったように、インドのほうから読んでくれたのかもしれない。
そして、23年ぶりのインドは、私に以前とはまったくちがう顔を見せてくれたように思う。
以前の旅はいわば観光コースをたどる、定番の旅だった。楽しく、めずらしくはあったが、インドの実体に触れた感じはあまりしなかった。
こんど私が歩いたのは、インドの内陸部である。ガンジス河の河ぞいの土地は、ブッダが絶えず歩いた土地だ。
ブッダという存在を、これまで私は静的にとらえていたように思う。樹下に座って瞑想している思索の人、といったイメージだった。
しかし、ブッダは家を捨てて放浪したのち、驚くほどすみやかに真理に目覚めている。いわゆる求道の時間、悟りをうる過程は家を出て山林で苦行した歳月を入れても6、7年ほどだろうか。
その後のブッダの人生の大半は、すべて布教伝道の旅についやされている。ブッダは一ヵ所に寺を建てて定住することをしなかった一所不住の歩く人なのだ。
歩きつづけるブッダの姿
当時のインドでは雨季にに入ると旅は事実上不可能となった。洪水で橋はこわれ、道は水びたしで、疫病も流行する。この期間だけはブッダも仲間や弟子とともに都市部で思索を深め、瞑想を楽しみ、法を語りあってすごした。雨安居といわれるのがそれである。
しかし、雨季が終わればブッダに旅が再開される。彼はあらゆる人びとに自分の発見した真理を語り、教えて歩き回った。生き難き人生をどのように安らかに生きるか、というのがその語った内容だ。
最初にブッダの教えが広まったのは、農村部でも、下層社会でもない、彼の思想に共鳴し、それをサポートしたのは都市の商人階級であり、資産家たちであり、王族、知識人たちである。
それらの階級の人びとは、旧バラモン階級の下に位置付けられながらも、ようやく、新興実力グループとしての新しい時代を担いつつあった勢力だった。
彼らは、みずからの集団のアイデンティティーを補完する新しい思想を切に待ちのぞんでいたのだろう。
ブッダはまず都市部から法を説き、そして各地に遊行の旅を開始する。話を聞きたいと願う者に対しては、ブッダは素晴らしく自由で偏見がなかった。盗賊であろうと、遊女であろうと、最低辺の賤民であろうと、王族貴族や大商人とまったく差別なく自分の悟った真理、人間の生きかたを語ってやまなかった。
伝道というと、どことなく求道より一段おとる仕事のようにも感じるところがある。アメリカのテレビ伝道師などの放送を見ていると、伝道がビジネスに思われてくるとしても無理はない。
しかし、ブッダに即していえば、彼の80年の生涯の大半はすべて伝道布教の旅の生活だった。
ブッダのイメージのありかたは、坐って瞑想する姿ではなく、杖をつき、ボロをまとって、炎天下をどこまでも歩きつづける「歩くブッダ」の像こそふさわしい。
河を渡り、村々を抜け、ときにはマンゴー樹林で野宿し、たずねる者にはどこまでも熱心に真理を説いてきかせる。どこまでも歩くブッダのイメージである。
彼は80歳のとき最後の旅に出た。
ガンジスを渡り、ほこりの舞う道を行き、マガダ国の首都を抜け、貧しい村で食事を供される。その食事で激しい腹痛におそわれ。衰(おとろ)え切った体でさらに旅を続ける。そしてついに林のなかで生き倒れて死ぬ。
思うにまかせぬ世に生きて
同じ道筋をたどりながら、私はブッダという1人の人間の肉声をたしかに聞いたような気がした。
仏教という文化は世界に壮大な流れを創り出した。しかし、その源の流れは驚くほどシンプルで明快である。
ブッダは。「この余は苦である」と語った。それを私は、
「世の中は思うようにならない」
と、聞いた。思うようにならない世の中に、私たちはどう生きればよいのか。はたして生きるすべはあるのか。生きる意味はあるのか。
ブッダは「ある」と言う。物事の道理をきちんとたしかめ、その道理を知り、そっれを解決する手だてを正しく実践せよ、と教える。
そして人が大事にしなければならないことの第一に、「不殺生」をおいた。これは「命を大切に」ということにつきる。命を大事にする、このことが今の私たちの社会ではもっともなおざりにされていることではないのか。
「人を殺してはなぜいけないか」
という問題に世間が関心をもったのは、ほんの数年前だった。そしてきちんとした答えのないままに忘れ去られたようにみえる。しかし、平成の仏教は、このことに真正面からきちんと答えなければならないと私は思う。
「盗んではいけない」
ともブッダは言う。
これは他人の所有物を奪うな、というだけのことではない。モノを大切にしよう、ということだ。自然もモノである。山も、川も、海も、空気もモノである。「モノを大切にしよう」という立場にたったとき、自然からモノを奪いつづけてきた人間の歴史がはっきり透(す)けて見えてくるだろう。
「盗んではいけない」とは、森を盗むこと、自然の資源を盗むこと、人間という存在のために他の生物から命を盗むことを深く反省させる言葉だ。
「不飲酒」というのは、ただ酒を飲むなと言っているのではない。体を大切にしようと説いているのだ。
同じように、ブッダは「性を大切に」「心を大切に」「家族や仲間を大切に」と言っている。この「大切にする」という、その思想を信仰にまで高めたところに、ブッダという人の魅力があるのではないか。
ブッダの教えを、そのように現実的にうけとめるのは、信仰の深さをそこねるものだ、という意見があるかもしれない。
それはそれでいい、と私は思う。ただ自分にとってのブッダの教えを大切にしたいと思うだけである。
インドの農村を歩き、チェンダの村にも足を運び、ガンジスも渡った。2500年前に80歳のブッダが歩いたかもしれない道を歩いて、不思議な充実感があった。そして、「インドに呼ばれた」自分が、ふたたび「日本に呼ばれる」のを感じた。思うにまかせね世の中を生きていく道は、たしかにあるのだと、いまあらためて思い始めているところだ。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
釈迦 (前463-前383) 80歳で死亡
ネパールの一王族の太子として生まれながら、29歳で出家し、35歳で悟りをひらいた釈迦−−ゴータマ・シッタルタは、以後、ネパールからインド北部を伝道し、80歳のとき、その旅の途上、クシナガラ近くで病んだ。信者の捧げた茸(きのこ)の食あたりであったという。
死期の近いことを悟った釈迦は、弟子のアーナンダに命じて、サーラ樹(いわゆる沙羅双樹)の林に縄床を敷くことを命じた。
釈迦は頭を北にし、右脇を下にして横たわり、手で枕し、両足を重ねて臥した。そして弟子たちに、なお心をゆるめることなく修業するように告げて死んだ。2月15日夜半であったといわれる。
このとき風はやみ、鳥獣は声をとめ、樹木も液汁を流し、木々の花は散ったという伝説がある。
釈迦の生死の年代については諸説があるが、最も学問的な年代説と認められている中村元説による。
子規
木のもとに臥せる仏をうちかこみ
象蛇どもの泣き居るところ
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ブッダ(仏陀)、シャカ(釈迦)・・・・ (一部抜粋しています)
ブッダとは、「真理を悟った人」という意味で、個人を指した言葉ではない。また「シャカ」も種族の名前であり、個人を指した言葉ではない。
個人を指した言葉はゴータマ・シッダルタという本名だけである。
http://www.geocities.jp/utzutz/india2005/INDO_K_BUTTA.htm