じじぃの「人の死にざま_05_野口・英世」

あの人に会いたい 野口英世 SPYSEE
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野口英世の生涯 動画 YouTube
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『正伝 野口英世 北篤/著 毎日新聞社 1980年発行 (一部抜粋しています)
第12章 ああ飯盛山
学者として最高の栄誉に輝き、年齢も50歳を越して、野口はなお安らぎを与えられなかった。生涯を見渡しても、凄まじい光を発するかと思えば、たちまち嵐と激浪に見舞まわれている。大きな賭けに生きたから、とも言えようが、単にそれだけではない。太閣秀吉にたとえられ、また当人がナポレオンに憧れたり、世間普通の軌道を辿れぬ運命らしい。
「アフリカの黄熱病はどうなのか、ブラジルのとは違うのか、確かめてみるしかないでしょう」
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彼は研究半ばで死んだから、「死人に口なし」で、野口学説もこれまで誤りとされてきた。その理由として、いま黄熱病の病原体はウイルスとはっきりした。野口はイクテロイデスとし、ワイル氏病と混同したとする。ウイルスは電子顕微鏡でしか見えず、1931年に発明された。野口は1927年にアフリカへ行ったので、科学史上の限界とする。果たしてそうか、筆者は医学など門外漢ながら、考え方の上で皮相なものにぶつかる。
まずアフリカの黄熱病について、南米の病原体とは質的に違う、と気付いている。チルデン嬢への手紙で、「濾過性微生物」としており、これこそ注目すべきである。ウイルスは濾過性だし、彼はそれを敵の正体と看破ったのである。しかもそれらを接種して、同一の病変を起こす、と突きとめている。これこそ黄熱病の病原体でなくて、何と言えようか?! 従って南米時代の研究からみて、質的に前進しており、人々はこれを見落としている。ウイルスは1892年、たばこモザイク病から、存在を認められてきた。野口はそれを承知だし、相手を濾過性の微生物と呼んだのである。従って野口はここまでわかっても、顕微鏡で見ていない以上どうか。病原体とはしないだろう、という人があるが、勝手な推定になる。まして野口はニューヨークで、最後の詰めをやろうとしていた。
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病状は一進一退で、18日はかなり好転したように見えた。研究所の様子を聞きたい、と積極的な意欲を示した。発病してから、もう7日である。周りの人たちに、「どうやら峠を越せそうだ」と喜ばせる。10年あまり前、腸チフスの時も、異常な強靭さで危機を脱している。
ところが翌19日の朝、てんかんめいた発作をおこした。ひきつり震える姿に、皆が強いショックを受ける。3分ほどでおさまり、その後はうとうとし、衰弱が目立っている。うとうとしながら、目を閉じたらそのまま・・・・・と恐れるらしく、眠るまいと努める。まだ意識は確かで、目をさますと話しもする。
「あの方の場合、何事も長くかかり、私らとは違う」
ある者がそう言い、抜群の生命力を示すことらしい。この日の午後、ヤングが見舞いに訪れた時である。ヤングは野口の片腕となって研究し、野口は発見の秘密をも知らせていた。近づいてくるところを見わけ、嬉しそうな表情になり、かすかな声で尋ねた。
「君は・・・・だいじょうぶかね?」
アカゲザルが黄熱病で死ねば、解剖は野口がやり、ヤングにはさせないできた。
「私は元気ですとも」
「そう、ほんとうに・・・・元気ならいい」
それからしばらくして、ぽつりともらした。
「僕には・・・・・わからん」
何がわからぬのか、感染の理由が不明というのか、あるいは前に黄熱をやっていながら、またかかったのはおかしい、というのか・・・・・細菌学徒らしく、これが彼の最後の言葉という。

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野口英世 ウィキペディアWikipedia) より
野口英世 (明治9年(1876年)11月9日-昭和3年(1928年)5月21日)は日本の細菌学者。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。その他、ブラウン大学、イェール大学より理学博士を授与されている。称号はエクアドル共和国陸軍軍医監、名誉大佐。キリスト者
黄熱病や梅毒等の研究で知られる。また、コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人ともいわれる。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去。
野口を主人公とした、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物である。2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっている。
趣味は、浪花節、将棋、囲碁、油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、ここで油絵の多くは描かれた。
アメリカ・ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館入り口の双方には、ロックフェラーと、ロシア人彫刻家カニョンコフが制作した野口英世の胸像がある。この像はロックフェラー財団からの贈呈を受け、福島県猪苗代町にある野口英世記念館と東京都にある野口英世記念会館にも設置されている。また長野県佐久市にある臼田文化センターには彫塑家川村吾蔵が制作した胸像がある。さらに東京都の科学博物館前にも銅像がある。

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【次代への名言】5月21日・野口英世 2009.5.21 MSN産経ニュース
■「天才なんてあるものか! あるのは努力だけだ! 誰よりも3倍、4倍、5倍努力勉強する者、それが天才なのだ!」(野口英世
幼いころ負った左手の大やけどというハンディを克服、冒頭のことばそのままの苦学の末、24歳で渡米し、細菌学の世界的権威となった野口英世の生涯は、われわれが接する最初の偉人伝の一つだろう。また彼が生前、「完全な人間」にまつりあげられた自分の伝記を「作り話」と語っていたこと、実際、「経済上は実に零点以下」と自嘲(じちょう)するほどの浪費癖があったことは知られている。
1928(昭和3)年のきょう、野口は研究中の黄熱病のためにアフリカ西部・アクラで死去した。51歳だった。
寸暇(すんか)を惜しみ、世界のライバルとしのぎを削って得たきのうの発見も、きょう覆ってしまうのが科学の世界である。彼は黄熱病やポリオ、狂犬病などは細菌という微生物が病原体である、と考え、最晩年には妻、メアリーに「黄熱病の病原体を発見した」とつづった。が、いずれも当時は発見不可能の「生物と無生物の間」、ウイルスが病原体だったことが死後、確認されている。そんな運命を思うとき、野口がなぜ次の人生観を記したのか、少し理解できる気がする。
「此(この)世の中にて最も尊きものは、慈愛の徳に御座候(ござそうろう)(中略)人の一生は三日生きても百歳生きても同じもの」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090521/acd0905210320000-n1.htm