じじぃの「人の死にざま_06_モネ」

クロード・モネ - あのひと検索 SPYSEE
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モネ  「亡き王女のためのパヴァーヌ 動画 YouTube
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WATER LILIES - MONET - VIRTUAL GALLERY Agaigio For Strings 動画 YouTube
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モネ作 「睡蓮」。

『モネ ≪睡蓮≫への歩み』 六人部昭典著 六耀社 (一部抜粋しています)
≪睡蓮≫と20世紀
モネは1883年にジブェルニーの村に転居した。彼はパリから遠く離れた静かな村が気に入り、後半生をこの地で過ごすことになる。
花作りが好きだったモネは、ここに見事な花の庭を造成する。
彼は続いて、睡蓮の池を中心にした水の庭を作る。睡蓮の浮かぶ池には日本風の太鼓橋も架けられた。晩年を迎えたモネは、自ら手がけた庭を毎日のように歩いた。
やがてこの水の庭をモチーフにして、≪睡蓮≫の作品が生まれる。
モネは1900年頃から、≪睡蓮≫を描き始める。最初は睡蓮の咲く池全体が描かれたが、モネの視点はしだいに水面に引き寄せられてゆく。
太鼓橋や周囲のしだれ柳は消え、睡蓮の浮かぶ水面の広がりだけが画面を覆うようになる。
こうして睡蓮の制作が進むにしたがって、描かれる主題は、睡蓮の池から水面へ、そして水面にうつる空や柳の影、すなわち反映へと移行する。
画面は水面の広がりという二次元のものでありながら、水にうつる空の高みによって、水面下に降りゆく空間が生み出されている。また水面にうつる空はさまざまに光が変化する。
反映とは、水に宿された光の効果にほかならない。水と光はモネが描き続けてきたモチーフだが、晩年に彼が見だした反映において、両者はひとつに融合したのだった。
モネは1910年頃に、≪睡蓮≫の作品で部屋を装飾するという構想をいだき始める。彼の考えは、後に友人の政治家ジョルジュ・クレマンソーの提案によって、国家に寄贈する大きな計画に発展する。だが1840年生まれのモネはすでに70歳を迎えようとしており、大画面の制作は体力的に困難な仕事だった。さらに再婚した妻アリス、長男のジャンがあいついで世を去った。
モネは老いや失意を乗り越えて制作に励むが、眼の衰えと闘わなければならなかった。「視力が日々衰えてゆくのを感じ、まだ少しでも見える間に、絵をもっと良いものにしたいと思い立ちました」(1922年の手紙)。
彼は残された生涯のすべてを制作に費やした。1926年、モネは86歳で死亡する。
死の翌年、≪睡蓮≫の大作はオランジュリー美術館におさめられた。かれの構想は「≪睡蓮≫の部屋」として実をむすんだのである。

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『名画の言い分』 木村泰司著 集英社 (一部抜粋しています)
モネはキャンパスの上で色彩の大変革を行いました。それまでは絵を演出するための脇役にすぎなかった光や色彩といったものを、主役へと昇格させたのです。そしてルネサンス以来の写実的表現から、新たな表現へと絵画の方向を転換させました。モネは額縁を窓枠に見立てて、奥に広がる風景を描こうとするルネサンス以降の伝統を捨て、まさに"絵画というのは絵具で塗られた平面的なもの"という考えを実践したのです。
また、モネは直感的に描きながらも、色彩分割法という非常に論理的な画法を用いました。これは、絵具を混ぜると明度が落ちてしまうので、絵具を混ぜないで筆触を細かく分割して描き、見る人の目のなかで絵具が混じることによって効果をあげるという画法で、ドラクロアが編み出したといわれています。ですから、モネの作品は間近でみてはいけません。遠目で見ないと目のなかで絵具が混ざらないからです。色彩と絵具の効果を分析し、人間の視覚を利用した画法を用いること自体、それが絵であることを強調しているわけです。そこには、絵のなかに現実の空間をつくり上げるという幻想は、微塵もありません。
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そうして描かれた晩年の連作『睡蓮』は、実に200点以上も制作されています。物語にも人物にも興味になかったモネは、ほかの絵はほとんど描かなくなり、『睡蓮』に熱中しました。そこで自然の相互作用というものを表現していったのです。また、この『睡蓮』のように、花を花だけ描いた絵画は、それまでの西洋美術では一般的ではありませんでした。そこには、花鳥風月を平面的に描く日本画の影響が表れているといわれています。

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クロード・モネ 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日-1926年12月5日)は印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。モネは印象派グループの画家のなかではもっとも長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。ルノワールセザンヌゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。
『睡蓮』の連作
1914年頃から制作を再開。縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。視力が悪くても、大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。1922年には片目は強い光が分かる程度、もう一方の目の視力も極度に落ち、1923年には3回にわたって眼科の手術を受けた。最晩年の「日本の橋」や「バラの小道」をテーマとした作品群はほとんど抽象に近づいている。
パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める『睡蓮』の大壁画は、1918年、モネの友人でもあったジョルジュ・クレマンソー(首相経験者)を通じて、モネが国家に寄付を申し出たものである。この『睡蓮』の展示にあたっては(1)『睡蓮』の部屋には他の作品を展示しない、 (2)作品と観客との間に仕切りやガラスなどを設置しない、などモネ自身によって厳しい条件が付けられている。モネが1923年にしぶしぶ白内障の手術を受けたのは、この大作を完成させるためだったという。作品の出来に満足していなかったモネは一時は国家への寄贈を取りやめようとさえ思ったが、クレマンソーはモネに対し「あなたのために国家は多額の出費をした。あなたには寄贈を取りやめるという選択肢はない」との書簡を送った。モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けた。そして「作品の展示は自分の死後にしてもらう」という条件だけは断固として貫いたのである。モネは1926年12月5日、86年の生涯を閉じ、『睡蓮』の大壁画は翌1927年、正式にフランス国家に寄贈された。

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パリの美術館(5)・モネ晩年の大作【睡蓮】オランジュリー美術館 コクリコさんの旅行ブログ by 旅行のクチコミサイト フォートラベル
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