じじぃの「人の死にざま_04_夏目・漱石」

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知ってるつもり?!夏目漱石 動画 YouTube 1/4
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知ってるつもり?!夏目漱石 動画 YouTube 2/4
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『心を癒す 漱石からの手紙』 矢島裕紀彦著 青春出版社 (一部抜粋しています)
もっとも、漱石は元来が無邪気な食いしん坊であった。酒をほとんど嗜まないせいもあってか、甘い物にはなかなか目がない。
「君のくれた菓子は僕が大概くって仕舞った。子どももたべました」(明治38年4月13日付、森巻吉宛書簡)と綴るのは、明らかに子どもそっちのけで送られた菓子を食ってしまったことの告白だし、鏡子が語った四女・愛子と漱石との次のようなやりとりも、文豪の子ども染みた「食への愛着」を感じさせてなんとも微笑ましいエピソードである。
≪・・・・・この愛子がお父さん思ひで、夏目がよくお菓子をつまんだりするので、お腹によくないと思ひかくしておきますと、書斎で勉強した後で一つ羊羹をつまみたくなって出るのでせう。戸棚をさがしてもありません。すると子供は目が早いので、私の隠しておいたところをちゃんと知って居て、気の毒だと思ふのでせう。お父さん、こヽにあってよと出してやります。おヽいい子だいい子だ。お前は中々孝行者だなんとかにやにやしながら、お菓子をつまんで頑張って居ります。胃の悪い癖に、こんなことは平気な方でした。・・・・・≫(『漱石の思ひ出』)
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近しい人たちの、そして自分の体内にも潜んでいる死を見つめるうち、漱石は人間の生死を包み込む大きな自然のありようを再認識していた。その前に立つと、漱石自身もきわめてちっぽけな、平凡な存在に過ぎなかった。突き詰めていけば、人間、最後はひとりだという孤独感も募る。
親しく交流のあった洋画家・津田青楓宛の手紙に、「芸術家が孤独に安んぜられる程の度胸があったら定めて愉快だろうと思ひます」(太正元年12月4日付)とか、「世の中にすきな人は段々なくなります。さうして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことに此の頃の春の光は甚だ好いのです、私は夫(それ)をたよりに生きてゐます」(太正3年3月29日付)などと書いたのも、そのころの心境を示すものであった。静かな諦観さえも抱きはじめていたかもしれない。
その上で、いや、だからこそ尚、『行人』『心』『道草』『明暗』などの創作には剥き出しの精根を傾けていく漱石なのである。

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夏目漱石 ウィキペディアWikipedia) より
夏目漱石 慶応3年1月5日(1867年2月9日)-大正5年(1916年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後に東京帝国大学)英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後東大講師を勤めながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。
修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私」(そくてんきょし)の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。
修善寺の大患
明治43年(1910年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。明治44年(1911年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院(1932年に湯川秀樹が婿養子となる。1950年に湯川胃腸病院と改称。)に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。大正元年(1912年)9月、痔の再手術。同年12月には、「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。大正2年(1913年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月ごろまで悩まされる。大正3年(1914年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
大正4年(1915年)3月、京都へ遊び、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始。大正5年(1916年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(50歳)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここにみずをかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。
『こころ』 あらすじ
時は明治末期。夏休み中に鎌倉に旅行に行った際、「私」は「先生」と出会った。先生は大学を出ているが就職せず、奥さんとひっそりと暮らしている。先生は雑司が谷にある墓地(雑司ヶ谷霊園)へ墓参りに行ったり、私に対して「私は寂しい人間です」と言ったりする。私はそんな生活を送る先生の事に興味を抱き、先生自身の事を色々と尋ねたりするが、先生は答えてくれない。奥さんとの間に子供がいない事も不思議に思うが、やはり答えてくれなかった。また、私に対して「恋は罪悪だ」など急に教訓めいたことを言ったりもする。そんな折に私の父親が病気を患っている事を話すと、先生は「お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらっておきなさい」と、現実的なことを言い出す。
私は大学を卒業後、実家に戻った。卒業後の就職先が決まっていなかった私に対し、家族から就職の斡旋を先生に依頼するように言われ、手紙を出すが、先生からの返事はなかった。まもなく、私は東京に戻る予定だったが、父親の容態が明治天皇崩御と時を同じくして悪化したために実家から離れる事が出来なくなる。
父親が危篤という状況になってようやく先生からの手紙が届く。私は先生の手紙から先生自身の死を暗示する文章を見つけたため、最期を迎えようとしている父親の元を離れ、東京行きの列車に乗る。列車の中で読んだ手紙には、衝撃的な先生の過去が綴られていた。

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近代日本の内面苦描く−−姜尚中さん
姜尚中・東大大学院教授は「僕にとっては非常に大きな意味のある作品」と語る。姜教授が感銘を受けたのは「先生と私」の章の<自由と独立と己れとに充(み)ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋(さび)しみを味わわなくてはならないでしょう>という言葉だという。
夏目漱石『こころ』 姜尚中(上) 2008年6月29日 asahi.com朝日新聞社
■人を信じるとは何か 鋭く深く問うてくる
夏目漱石は僕にとって一番身近な作家であり、この一冊を選ぶなら、迷うことなく『こころ』をあげる。
最初に読んだのは17歳の時だった。厭世(えんせい)的で孤独な僕の胸に「先生」の言葉がグサリときた。「自由と独立と己(おの)れとに充(み)ちた現代に生(うま)れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋(さび)しみを味わわなくてはならない」
しかし作品の真の深みを理解し始めたのは20代も終わりの頃である。大学、そして大学院時代を「自分は何者であるか」と葛藤(かっとう)して過ごし、その苦しみから半ば逃げ出すようにドイツへと留学した。冬のドイツの陰鬱(いんうつ)な日々の中で読み返した『こころ』は心に染みた。
恐らく僕は人生の師を渇望していたのだろう。両親とは違った意味での人生の師を、「私」にとっての「先生」に投影した。有り余る知性と教養を持ちながら、市井の片隅で生きる男が「私」によって「先生」と呼びなおされる。真の師弟以上にピュアなその関係性に、心底あこがれた。
この小説が鋭く深く我々に問いかけてくるものは、エゴイズムの問題である。「人は一体、何を信じることができるのか」、そして「信じるということはどういうことか」。裏切られて人が信じられなくなった「先生」自身が友を裏切り、死へと追いやり、その罪の意識は「先生」の自己破壊へとつながる。人間誰しもひと皮むけば欲とエゴイズムが顔をのぞかせる。自分をも含めて人を信じるということが、これほどまでに深い人間の内面世界の問題として描かれた小説を、ほかに知らない。
そして50歳を過ぎてからは、漱石の書く夫婦の形を、かみ締めるように読んでいる。『こころ』をはじめ、年月とともに関係性を変え、凡庸に暮らす夫婦が繰り返し書かれるが、凡庸さの中にも灰の中の残り火のような、穏やかな輝きが必ずある。漱石を読むと、そういうものも大切にしたいと改めて思うのだ。(東大大学院教授)
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