じじぃの「幸福な偶然」

生きる!! 中村久子物語 予告編 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=2GOKdH85hbw
『こころの手足』 中村久子著 春秋社
第2部 光を求めて (一部抜粋しています)
慈光に照らさる
昭和4年の夏
見世物小屋も休みで風通しのよくない室で汗を流しながら新刊の『キング』の一つの記事をまばたきもせず読んでいました。場所は姫路市の大黒町の裏にあるせまい家。記事は「寝ながらにして女学校の購買部を受け持っている人」たしかこんな題名だったと思います。その方の名は「座古愛子」、手も足も動かぬのにベッドに寝ながら商いをして、自分の生活は立派に立てておられる。その上、不自由な手にペンを取って、身の上相談にも応じておられるとか・・・・・。もっとも私の驚いたことは、口絵にある写真のお顔が光り輝いておいでになること、苦しみも悲しみも何の暗い影もない慈光そのものでした。どうしたらあんな美しいお顔になれるのだろうか? 幼い日に両手両足を脱疸病で切断した私は、手足のよさを知らない。そのために泣き悲しみ、苦しみ悶え続けて来た自分、その暗い心に、小さいながらも光が射しました。
それから間もないある日の午後、義足をはいて姫路から神戸まで、単身、座古女史に会うべく神戸女学院をお尋ねしました。小使さんに案内されて、ドアを開けて室内に入ったとたん、横臥されている女史のお顔は、口絵の写真より以上に美しい。神々しい観音様のような温かい、なんとも形容しがたい感じを受けました。この時の印象は終世忘れることはできません。女史とは初対面なのに双方とも言葉はなく、ただ目と目を見交わした刹那、涙はせきを切って流れ出しました。
不自由な者のみが知る苦痛の境地、そして重度の障害者のみに与えられた魂の交流する世界−−それはどんなに尊い数秒だったことでしょう。ようやくに涙の顔をあげて言葉を交わし、語りつ語られつするうちに、最悪の不自由者お互いが、生きているのではない、"生かされている"−−と、当時無宗教だった私にも、心の底に無言の声がはっきりとひびきました。
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初めて心の眼が覚めました。いいえ私が覚めたのではなく、女史によって覚まして頂きました。この時の感激は拙い筆に現わしつくすことはできませんが、それ以来親を恨み世を呪うことはやめました。女史にお会いしたことが、どんな名僧知識の御高説よりも、高価な書物よりも、私には偉大な慈光であり、いかに尊い教えを得させて頂いたかは計り知れぬことでございます。

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どうでもいい、じじぃの日記。
千葉の東金に移って3ヵ月目になろうとしている。
去年の今頃まで、プログラマーとして仕事をしていたのが、夢のようである。
6X歳まで仕事ができたことが、幸運だといえば幸運だったのかもしれない。人にもよるだろうが、60歳は人生の分水嶺である。体力的にも、自分ではまだまだやれると思っても、徹夜ができる年齢でもない。無理をすれば、たちまち体が変調してくる。
去年の6月〜今年の5月。我が人生でも、世界でも大きな変化のあった年だった。
話変わって
先日、妹からメールがあった。
『中村久子の生涯』という本を読みました。幼年時、四肢切断した運命を背負った人の生き方に圧倒されました。仏教の話も出てきます。是非一読をおすすめします。
こんな、メールを受け取ったのは初めてだったので、東金の図書館に行き、図書館のパソコンで「中村久子」を検索してみた。「中村久子」関係の本が数冊、見つかって、『中村久子の生涯』という本もあった。なぜだか、『中村久子の生涯』は貸出が不可になっていたので、かわりに『こころの手足』を借りてきた。
昔、日テレの番組で関口宏司会の『知ってるつもり?!』というのがあった。「中村久子」はこの『知ってるつもり?!』でやっていた。
本の中に「中村久子」の写真があったので、十数年前に観た番組の映像が生々しく思い出された。
『こころの手足』の中に「座古愛子」女史と出会ったときのことが書かれている。なぜか、思わず、涙が出てしまった。
我が人生で今まで、このような「幸福な偶然」があっただろうか。「幸福な偶然」に出会えた人生は素晴らしい人生なのだろう。これからでも、「幸福な偶然」に会えるかもしれない。とりあえず、素直な気持ちで過ごしてみよう。
『こころの手足』解説より
座古愛子女史は、16のとき発病したリウマチがもとで、昇天されるまでの約50年間を、ベッドに寝たきりで、寝返りも打てなかった人である。クリスチャンであった女史は、この悲惨な人生に耐え、むしろ神の恩寵として受けられて、柔和な笑顔を忘れずに、神の愛を説かれた。動かぬ指にペンを握って書面伝道に励まれ、ベッドに寝たままで神戸女学院の購買部の仕事をされて、人々の灯となられた人である。