じじぃの「ララ物資の父・浅野七之助」

浅野七之助 - あのひと検索 SPYSEE
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浅野七之助 画像
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NHKスペシャル|象徴天皇 素顔の記録 2009年4月10日
4月10日、天皇皇后両陛下はご結婚50年を迎えられる。日本国憲法第一条に記された「日本国と日本国民統合の象徴」である天皇。しかし、象徴天皇とはどのような存在なのか。その実像を私たちはどれだけ知っているだろうか。
即位の時から「象徴」であることを宿命づけられた、いまの天皇陛下。国民に近い皇室にしたいと、旧弊を破りライフスタイルを変えられた。これまでほとんど前例がなかった被災地への訪問に取り組み、膝をついて人々と向き合われた。そして、沖縄やサイパンなど、激戦地への「慰霊の旅」。
その歳月からは、「政治には関わらない」という大原則のもと、国民のために何をなすべきかを自問され続けた、天皇陛下の信念や葛藤が浮かび上がる。
番組では、新たに発掘された資料や証言、貴重な記録映像をもとに、両陛下の歩みをたどり、象徴天皇とは何かを考える。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/090410.html
ララ物資 ウィキペディア(Wikipedia)より
ララ物資とは、ララ(LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)の提供していた日本向けの援助物資のこと。
ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体。 1946年1月22日にアメリカサンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。
南北アメリカ大陸在住の日系人が寄附の中心となり、主な支援物資は長期間の輸送を考慮して脱脂粉乳と衣類であった。
当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志アメリカ協議会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があった。反日感情が残るなかでの「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きい。
なお、日本国内での物資配付にあたっては連合国軍最高司令官総司令部の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付された。

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**日本が受けた援助の歴史と 第二次世界大戦後の日本と援助の関わりについて** 援助の歴史  (一部抜粋しています)
◆年表
◆敗戦後の荒廃と再生までのシナリオ
◆LARA物資援助
ユニセフによる日本への援助
◆国際NGOによる支援(ケア)
◆GARIOA・EROA
◆対日援助と日本の発展
http://www.juwa.co.jp/alice/006/ap006.html
浅野七之助
盛岡市出身の浅野七之助がサンフランシスコの自宅で平成5年、死去した。98歳だった。
郷土の先輩、原敬の書生となり、中央大学で学んだ後、大正時代に東京毎夕新聞記者特派員として渡米、1924年から朝日新聞米国西部沿岸通信員を務めた。
サンフランシスコの代表的邦字紙「日米時事」を発刊し、社長となる。
在米日本人、日系人の権利擁護、拡張のための民権擁護協会、帰化権獲得同盟に参加した。
(戦前、日本人の土地所有を事実上禁じた法律が成立したり、日本人に帰化権はないとの最高裁の判断が出されるなどの排日の動きに対して、言論の場で対抗した。 裁判闘争を支援したり、日系人の権利擁護、地位向上を求める論陣をはった)
アジアの困窮者を救うために米国で設立された団体による「ララ物資」の父とまでいわれた。
(敗戦の日本に、米国のクェーカー教徒らの協力を得てミルクや衣類などの「ララ」物質を送り、子供達を飢餓から救ったことは忘れることができない)
日米親善と在留邦人の地位向上に貢献したことで、勲三等瑞宝章を授与された。
県勢功労授賞の感想として啄木の歌「ふるさとの山に向かいて言うことなし...」の心境だと語ったという。
永住権は持ちながら、米国国籍は取らなかった。望郷の国際人だった。
http://160.29.86.21/iwate/asanoshichinosuke.htm
どうでもいい、じじぃの日記。
4/12、再放送であったが、NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」を観た。
4月10日で天皇、皇后両陛下はご結婚50年を迎えられた。
じじぃが子どもの頃、テレビで天皇、皇后の結婚のパレードを観た。天皇、皇后が子どもの頃は戦争〜終戦の時代であった。
戦後、沖縄やサイパンなど、激戦地への「慰霊の旅」に出かけられている映像があった。
映像の中に、終戦の1年後から、日本の子どもたちへの学校給食が始まったというのが流れた。
3/13に観た、テレビ東京「世界を変える100人の日本人!」の「ぐっとくるALLSTARS」の中に「ララ物資の父・浅野七之助」があった。
あの、学校給食はアメリカの救援物質から始まったということは知っていたが、陰でその救援物質が日本人の浅野七之助の働きかけだったことを始めて知った。
戦後の日本で飢え死にした話がほとんど聞いたことが無いのは、浅野七之助がいたからだった。
ララ物資の援助は、当時の金額で400億円以上、今なら9000億円相当だそうだ。この援助を引き出すために陰で奔走したのが、浅野七之助という人物だった。
この活動は1952年まで続いたという。
東京オリンピックで活躍した体操ニッポンの遠藤幸雄さんが3月27日に亡くなった。もしかしたら、遠藤幸雄さんも、この「学校給食」で育ったのかもしれない。