じじぃの「歴史教科書・韓国大統領・文在寅という人物をどう見るか!日本に迫る統一朝鮮の悪夢」

日韓対立 今後の行方は (19/12/2)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=N38OY6ulxqc&feature=emb_title

韓国の歴史教科書は?

大韓民国臨時政府

ウィキペディアWikipedia) より
大韓民国臨時政府は、1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国上海市で結成された朝鮮(韓国)の組織である。
大韓民国臨時政府主席金九と 外務部長趙素昻名で大韓民国23年12月10日に宣言したが、日本政府ならびに連合国は現在も臨時政府を国家として承認していないため、国際法上の意味を持つに至っていない。

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非暴力の精神とデモの文化/キャンドル集会[16年10月―17年3月]とは何だったのか

世界に類のない、大規模な非暴力積極行動だったキャンドル集会を、朴槿恵(パク・クネ)政権と軍はどのように鎮圧しようとしたのか。その詳細が明らかになれば、民衆の反政府抗議行動について考える材料の一つとして、それは貴重なものとなるはずだ。
キャンドル闘争のなによりの成果は、「キャンドル政権」を自任する文在寅政権の誕生である。新政権によって南北対話が再開され、朝鮮半島に平和が訪れ、北東アジアの新時代がはじまりつつある。
http://www.labornetjp.org/news/2018/1115takasi

報道1930

2019年12月2日 BS-TBS
【キャスター】高畑百合子、松原耕二 【コメンテーター】堤伸輔(雑誌編集者) 【ゲスト】新藤義孝(元総務大臣)、木宮正史(東京大学大学院教授)、権容奭<クォン・ヨンソク>(一橋大学大学院准教授)
日韓対立の原点は。基金設立で日韓関係に進展は。韓国の歴史教科書。「徴用工」「慰安婦」。どう伝えている? 文政権で起きた“歴史”の変化。
●韓国は歴史教科書で日本をどう伝えているのか
韓国の歴史教育は日本の植民地時代について多くの時間を割いて教えている。
韓国では「徴用工問題」「慰安婦問題」などの歴史教育は小学生や中学生も学んでいる。
韓国の高校の教科書には、日本の植民地時代について2つの解釈が並べて記述されている。
植民地近代化論・・・日帝が統治する期間中、鉄道、道路、建設など産業基盤が根付き近代化が定着した。
植民地収奪論・・・・日帝の朝鮮工業化政策は、恐慌によって投資先が見当たらなかった、日本資本の脱出口を探す過程で行われた政策。
クォン・ヨンソク、「植民地近代化論の方が保守の立場。植民地収奪論の方が現政権(リベラル)の立場になる」

韓国・歴史教科書 文政権になって変ったこと

1948年 「大韓民国樹立」
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1919年 「大韓民国政府樹立」
文政権が主張する「1919年 臨時政府樹立」こそが建国。
「漢江の奇跡」 削除。
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文政権を生んだ「ろうそく集会」を追加。
●日韓対立 今後の行方は
新藤義孝、「韓国の皆さんにも客観的事実に基づいた教育がなされることを期待したいと思います。日本においても良いことも悪いことも知らなければまた次の過ちを犯すようになってしまう。ですからきちんと事実を知るべきです」
木宮正史、「対話をしてお互いに相手の考え方を理解しようとすることが重要」
クォン・ヨンソク、「韓国の近代史の分量が多いのは、いままだ分断国家であるということがある。近代国家をまだ韓国は樹立できていない。まだ歴史ではなく現在進行形なのです」
https://www.bs-tbs.co.jp/houdou1930/

アメリカ人が語る日本の歴史 日本に迫る統一朝鮮(コリア)の悪夢』

マックス・フォン・シュラー/著 ハート出版 2019年発行

Moon Jae In, the most dangerous President

文在寅という最も危険な大統領 より

以上(南北統一)のように想定される状況において、最も危険な人物は文在寅大統領です。彼は、金正恩総書記より統一を急いでいるように感じます。

文在寅大統領は、南北統一を果たすことができればノーベル平和賞を受賞できると信じている、という記事を読んだことがあります。

しかし、これまで多くの韓国の指導者が北と交渉してきましたが、具体的な成果はほとんどありませんでした。
   
単に南北会談を行っただけではノーベル平和賞は得られませんが、このノーベル平和賞を望んでいるという話は、文在寅大統領の虚栄心の強さを示しています。彼は自分の野心のために、韓国を北朝鮮が望むように変えていくでしょう。しかし国の指導者というものは、自分を律しなければなりません。彼は統一のプロセスの端緒に手をつけることだけを考えるべきです。その過程は30年から50年はかかるものであり、文在寅大統領が生きているうちに達成できるようなものではないでしょう。

じじぃの「歴史・思想_84_中東の世界史・民族運動・パレスチナ分割」

Rise and Fall of the Ottoman Empire

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xkEFO2T3M3Q

Decline of the Ottoman Empire

『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』

臼杵陽/著 作品社 2018年発行

民族運動の新展開 より

民族自決の原則が適用されたのは旧オーストリアハンガリー(ハプスブルグ)帝国、あるいはロシア帝国の一部である。結局、民族自決の原則はヨーロッパ地域の諸民族においてのみ適用され、旧オスマン帝国領を含む、それ以外の地域のアジア・アフリカなどの諸民族に対しては適用さらなかった点がパリ講和条約の限界であった。すべての被抑圧民族に適用される普遍的原理としての民族自決ではなかったのだ。
民族自決とは、英語では”self-determination”つまり自己決定権のことである。民族単位に基づき自分のことは自分で決める事ができる。独立と同等の価値を持つ考え方だと言ってもいいだろう。これをアメリカのウイルソン大統領が提唱したのであるが、イギリスやフランスといった植民地宗主国は認めず、自らの植民地に関しては手づかずの状態にしておくべき画策した。その結果、敗戦国オスマン帝国支配下にあり、英仏の委任統治の下に入った国々では民族に対する自決権は認められなかった。
民族自決権が認められなかった典型例としての九オスマン帝国領(アラブ地域)は第一次世界戦争後、ヨーロッパの国々の恣意的な線引きによって、一部の民族は分断されたし、国境線の引き方によっては複数の民族がその中に入ってしまう事態も起きた。基本的にナショナリズムは、国境線とその中に住んでいる人々が一致することが原則だが、そういったネイション(nation)としての民族(国民)とステート(state)としての国家が一致している国民国家(nation-state)の設立が事実上不可能に」なってしまったのが、第一次世界大戦後に恣意的な国境線が引かれたアラブの諸国家だったのである。
とは言いながらも、国民国家という新しい考え方は人々の心を捉え、その建設が目指されることもたしかである。ヨーロッパで生まれた考え方だが、独立した国々はその考え方を踏襲せざるを得なかった。つまり新たなかたちでの国境線の押し付けという中で、ヨーロッパからナショナリズムがもたされることになったのである。
もう一点、この中東地域の歴史で興味深いのが、ヨーロッパの植民地宗主国が戦争に関与する間に植民地において出て来た新たな動きである。
まず、民族資本家と言われる人々が、第一次世界戦争が契機となって影響力を持ち始めた。民族資本家の具体例を挙げると、エジプトのタラアト・ハルブ(1867-1941年)が有名である。今でもカイロのタラアト・ハルブ広場に銅像が建っている。彼はミスル銀行を創設した人でもある。
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また、欧米などの植民地宗主国で教育を受けた人々が後に民族主義的な政治指導者になっていく。パリ講和会議には、ベトナムホー・チ・ミン(1890-1969年)等も駆けつけて民族自決の観点から独立を要求した。フランス植民地の場合は若い知識人たちはパリに出ることが多く、そこで教育を受けるので、フランス人の理屈をきちんと踏まえた上で議論をするような指導者たちが生まれてきた。
さらに、同時期にロシア革命(1917年)も起きたこの時期以降、民族運動に加えて、それぞれの地域において共産主義運動も開始される。有名な話だが、日本共産党朝鮮半島や台湾の人々の民族解放運動と連動するかたちで動いていた。共産主義運動は、必ずしも共産主義革命を目指すだけではなく、民族解放という目標までも理念の1つとして抱え込んだのである。
中東においては、共産主義者になっていくのは民俗的・宗教的マイノリティーの人たちであった。宗教で言えばイスラーム教徒よりも、ヨーロッパの地域や思想を受け入れやすい立場にあったキリスト教徒やユダヤ教徒であった。
共産主義運動に関して特に悲劇的だったのがパレスチナである。パレスチナにおいては、共産党員はほとんどがユダヤ人で、それもロシアあるいはソ連から移民して来たユダヤ人ばかりであった。1935年に開催された第7回コミンテルン(インターナショナル)大会において、ここでいう民族資本家あるいは民族ブルジョワジーと共闘しながら革命を行うという戦術転換が行なわれた。その際、パレスチナ共産党の指導者だったユダヤ人はほとんどがパージされ、ソ連に追い返されて、その上でアラブ民族指導部が据えられたのである。ユダヤ人指導者はスターリン独裁時代の1930年代にそのほとんどが粛清された。コミンテルンによるパレスチナ共産党の「アラブ化」(共産党指導部をアラブ人に交代させる)の指令のために、追放されたユダヤ人指導者がソ連で非常に悲劇的な運命を辿ったのである。
そういった共産主義者の活動は、それぞれの地域の民族運動との矛盾を最も抱え込んでしまうことになった。結果的に、中東に関して言えば、共産主義運動が広がることはほとんどなかった。後の話になるが、1947年に国連でパレスチナ分割議案の採択が行なわた歳、グロムイコ・ソ連外相(1909-89年)が演説を行ない、ユダヤ人国家の創設にソ連が賛成票を投じた。そのためアラブ世界の一般のムスリムたちは、「ソ連ユダヤ人国家の建設を支持している」としてソ連をまったく信用しなくなり、共産主義運動はアラブ世界では影響力をほとんど持ち得なくなったのである。

じじぃの「媚薬・消えていた性欲をよみがえらせるには?化学物質の恵みと誤解」

ふたりを惑わす媚薬の誘惑「あなたの知らないトリュフの世界」

2016.04.06 LEON
黒いダイヤモンド"の異名をとるトリュフは、実はモテる飯にうってつけの食材。というのも、ステロイド成分がフェロモンと酷似していて、媚薬、強壮効果があるの。しかも今回は、トリュフでは珍しい"ご飯"メニューの仏、伊、和の響宴。美味しいうえに、ニキータもキレイになれちゃうスペシャルディナーをどうぞ。
https://www.leon.jp/gourmet/3102

『「化学物質」恵みと誤解』

ジョン エムズリー/著、渡辺正/訳 丸善株式会社 2005年発行

媚薬とポッパー(亜硝酸アミル) より

   媚薬です……と言って薬を売る企業はないが、ほかの疾患に処方され、媚薬のようにはたらく物質はなくもない。なかには、究極のオーガズムを体験できると評判の薬もある。
性欲を高める薬を媚薬という。勃起を起こす刺激剤ではなく、消えていた性欲をよみがえらせるものだ。男と女の両方に当てはまる。人類が数千年来そんなものを追い求めてきた証拠のひとつが、エジプト中期王朝(BC2000年頃)のパピルスに残る媚薬のレシピだろう。
媚薬のはたらきをする物質はたしかにある。たとえばヨヒンビン、プロモクリブチン、デプレニルなど。ヨヒンビンは西アフリカに生える木コリアンテ・ヨヒンベの皮から抽出され、男の性感を高める。インドールアルカロイドの一種で、天然物だから生薬業者から買う。NOと同じく血液をペニスに流入させるが、ペニスからの流出を抑えたりもするらしい。
プロモクリブチンは麦角アルカロイドの中まで、名前から想像できるとおり臭素原子(Br)をもち、パーキンソン病の治療にも使う(肥満にも効くと評判)。プロラクチンという下垂体ホルモンの分泌を減らす。プロラクチンは母乳の生成を促す物質だ。女性ばかりか男性の体内にもあり、体内のプロラクチンが多い程性欲が落ちる。プロモクリブチンは脳内の快感物質ドーパミンのレベルを高く保つため、プロラクチンの生成を抑えつつ快感を生む。
構造のずっと単純なデプレニルは、やはりパーキンソン病の治療に使う。脳内物質のアンフェタミンや、チョコレートの習慣性を生むといわれるフェニルエチルアミンに似ている。デプレニル分子は珍しい炭素ー炭素の三重結合をもつけれど、それが媚薬作用にからむのかどうかはわかっていない。
さて主役の亜硝酸アミル。狭心症に処方したのは過去のことだがまだ入手できて、オーガズムを高める。ホモの男たちは大麻の次に好きらしい。昔のようなアンプル品はなく、ねじぶた式の瓶入りとなったのに、まだ「ポッパー」(アンプルを折るときの「ポン」という音からついたあだ名)で通る。

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どうでもいい、じじぃの日記。
人生とは?
人生とは死ぬまでの暇つぶし。
セックスの無い人生は考えられない。
人生とは、「ウフフフ」。

じじぃの「歴史・思想_83_中東の世界史・アラブ民族の自覚」

『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』

臼杵陽/著 作品社 2018年発行

「アラブ民族」の自覚 より

ここ(『アラブの現代史』1959年)で「アラブ」という時、念頭に置いているのが、オスマン帝国の支配を直接受けているアラブであり、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナイラクといった東アラブ(マシュリク)地域である。すでに見てきたように、帝国主義の直接支配を受けたのは、オスマン帝国の中でも、エジプトを含む北アフリカの国々であった。しかし、ここで強調されているのは、帝国主義の時代には、植民地化されなくても、オスマン帝国のそれぞれの地域自体における支配が、帝国主義的な性格を帯びていったということである。この点がこの時代の様相を理解する際に重要になる。
エジプトのムハンマド・アリーによるシリア遠征の失敗後、オスマン帝国1839年のギュルハネ勅令から1876年のオスマン帝国憲法(通称、ミドハト憲法)の発布に至る時期に近代化のための一連の諸改革をを行った。およそ37年間にわたるこの時期をオスマン史ではタンズィマート(諸改革)期と呼んでいる。この諸改革は内憂外患に状況に陥っていた帝国において官僚機構を改革し、近代的な軍隊を創設して、ヨーロッパ諸列強の脅威に対抗するものだった。
そして帝国主義の時代に入って、オスマン帝国のアブデュルハート2世(在位1876-1909年)は専制政治を布いた。ヨーロッパからの圧力に対して、帝国の支配領域を締め上げて一体化することによって対抗しようという意図であった。後に述べるように、オスマン帝国のような先進国と後進国のはざまにあった国家のこのようなあり方は帝国主義時代の表れと言っていい。
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先進国と後進国、あるいはヨーロッパとアジア、アフリカといった二分法では理解できない面があるということである。なぜこのようなことに言及しているのかというと、オスマン帝国のような中間の段階にある国も帝国主義化していったことを強調しているからだ。
福沢諭吉の『文明論之概略』の中では、ヨーロッパを先進地域として「文明国」と呼び、オスマン帝国と日本等については「半文明国」という表現を使っているが、その点がこの話とつながってくる。資本主義的レベルにおける発展という観点から見ると後進ではあるが、かといって完全に遅れているわけではなく、直接支配されるような「野蛮」な国ではない。中間段階にある地域を考える際には二分法では済まないということである。そのため、日本のような後進の帝国主義を考える際には、ヨーロッパとは違った特徴が出て来ることになる。
同時に、これまでも何度か見てきたように、バルカン地域においては、オスマン帝国からの独立運動が盛んになっていく。当時、この地域では、オーストリア=ハンガリー帝国が形成され(1867年)、ロシアの南下政策も進められた。バルカン地域の諸民族は、独立するか、オーストリア帝国(ハプスブルグ帝国)の中に組み込まれていくことになった。
バルカン諸国の独立はオスマン帝国にとっては大きな危機である。次第に領土を失っていく中、最後まで領土として持っていたアラブ諸国(シリア、レバノンイラク、ヨルダン、パレスチナなど)を抑圧するというかたちで、オスマン帝国は何とか直轄の領土を守ろうとした。つまりオスマン帝国とアラブ地域の関係は二重、三重の支配の構造になっているわけである。
東アジアの例で言えば、ロシアの南下により、満州中国東北部)、あるいは朝鮮半島が重要な問題の焦点になった結果、日本が日清・日露戦争で大陸に出ていったのと非常によく似た状況である。前近代におけるオスマン帝国の領土の統治は、単に帝国という傘を掛けていただけで、実際には間接支配であった。それが帝国主義時代になると、直接支配に変わらざるをえなくなった。それは政治的には抑圧というかたちをとるわけである。
そういった中で、アラブ人たちは「反トルコ人」という立場で民俗的自覚を持ち始める。フランス支配下に入ったアルジェリアやイギリスに占領されたエジプトは、欧米の植民地主義に対して直接的にナショナリズムを表現していった。一方、ここで言われている「アラブ」――シリア、レバノンイラク、ヨルダン、パレスチナという、直接ヨーロッパの支配を受けていない東アラブ地域――においては、「トルコ民族」に対する「アラブ民族」の抵抗としてナショナリズムが興隆したのである。
再び東アジアに関連させて言えば、1910年以降、朝鮮半島大日本帝国支配下に入ったが、「日本帝国主義」に対して朝鮮ナショナリズムが勃興したのと非常によく似たパターンである。

じじぃの「急性心臓死・痛いとはどういうことだろう?痛覚のふしぎ」

【51】緊急を要する病気「心筋梗塞」の前兆・予防

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DF8jBFxl064

painful broken heart

なぜ世の中には「痛み」を全く感じない人がいるのか、その理由を求めると次世代の鎮痛剤につながる

2018年10月29日 GIGAZINE
ヒトゲノムには約1000万の既知のSNPが存在しています。一つの目安として、SNPの率が1%を超えて「一般的」と見なされる場合、その変異は「変異体」と呼ばれますが、1%に満たない場合には「突然変異」と呼ばれることになります。この突然変異によってもたらされる症状の一つが、痛みを全く感じない「無痛症」です。
https://gigazine.net/news/20181029-why-more-pain-than-others/

『痛覚のふしぎ 脳で感知する痛みのメカニズム』

伊藤誠二/著 ブルーバックス 2017年発行

生まれつき痛みを感じない人は早死に より

アンケート調査で、子供と同じように、慢性痛を抱えた回答者の61.4%は痛みがなかったら前向きに考えられると答えています。さらに15.2%の患者は痛みがない状態がどういうものか想像できないと答えています。反対に、幸か不幸か生まれつき痛みを感じない人もいます。生まれつき痛みを感じない患者は先天性無痛症と呼ばれています。
先天性無痛症の症状が詳細に報告された、カナダのモントリオール大学の女子学生の例を紹介しましょう。彼女は高い知性の持ち主で、生まれてから痛みを感じたことがなかったことを除けば、正常でした。彼女は痛みを感じないために生じる脊髄の骨髄炎や損傷した膝の治療でたびたび入院しましたが、痛みを訴えることはありませんでした。さらには、頭痛、耳痛、歯痛、胃の痛みや生理痛も経験したことが全くありませんでした。海岸に出かけた日には、貝殻による切り傷が足にないか、注意深く調べなければなりませんでした。私たちであれば、貝殻を踏みつけた時の軽い痛みで反射的に足を上げますが、彼女は貝殻で深い傷をつくっても気づかなかったことがたびたびありました。3歳の時には、道で遊んでいる子供たちを見ようと蒸気が通っている暖房用ラジエーターにひざまずいてひどい火傷を負いました。
このように、彼女は機械的あるいは熱の侵害刺激による痛みを全く感じませんでした。さらに興味深いことに痒みを感じることもありませんでした。痛みを感じない彼女は損傷した関節を動かし続け、傷を悪化させてしまい、広範な感染のため、不幸にも29歳の若さで亡くなりました。
彼女の例からも、痛みを感じないということが生命を脅かすことは疑う余地がありません。
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痛みを理解する上で重要なことは、痛みが五感と異なり、不快な感覚的・情動的体験で、慢性痛の多くは痛みの原因が体内にあり、原因が除去されないと持続すること、痛みの感じ方は個人差があり、意識レベルや情動的な要因により変化することにあります。

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どうでもいい、じじぃの日記。
私は大人の発達障害者だ。
その他、感覚が鈍く特に嗅覚が鈍い。
ワサビを嗅いでも、5秒ぐらいしてからウッとくる。
痛覚というのは五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)とは異なるのだそうだ。
鼻が悪いというのは生きるうえでそれほど影響がないが、痛覚の鈍い鋭いは生死に関わる。
先日、ある女優が69歳で亡くなった。死因は「急性心臓死」だという。
急性心臓死は「ぽっくり病」とも呼ばれる。
寒暖差の大きいときに起こりやすいらしい。

じじぃの「歴史・思想_82_中東の世界史・アルジェリア(植民地化)」

The French in Algeria | Featured Documentary

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NOPfoaTaINU

France - Algeria

最後発の日本と違い、大航海時代から始まった植民地支配を いまさら「反省・謝罪」をしない欧州・フランスの事情 [橘玲の世界投資見聞録]

2016年4月8日 エキサイトニュース
近現代史をみれば明らかなように、日本は最後発の「帝国」で、最初の帝国主義戦争は1894年の日清戦争朝鮮半島を植民地化したのは1910年だ。それに対してヨーロッパ列強がアフリカ、南北アメリカ大陸を侵略し、奴隷制で栄えたのは15世紀半ばの大航海時代からで、イギリスが東インド会社を設立してインドなどを次々と植民地化したのは1600年代だ。

フランスのアルジェリア支配も1830年から1962年まで130年に及ぶ。日本とはその規模も影響力も桁ちがいなのだ。

私見によれば、これが日本が中国・韓国などから過去の歴史の反省と謝罪を求められる一方で、欧米諸国が植民地時代の歴史を無視する理由になっている。日本の場合は謝罪や賠償が可能だが、ヨーロッパの植民地支配は現代世界の根幹に組み入れられており、いまさらどうしようもないのだ――イスラエルパレスチナの対立はヨーロッパのユダヤ人差別と第二次大戦中の場当たり的なイギリスの外交政策が引き起こしたが、だからといって過去を「反省・謝罪」したところでまったく解決できないだろう。
そのためヨーロッパでは、「植民地時代の過去」は日本とはまったく異なるかたちで現われる。
https://www.excite.co.jp/news/article/Diamond_88860/

『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』

臼杵陽/著 作品社 2018年発行

アルジェリアの過酷な植民地化 より

アルジェリアはなぜ植民地化されたのか。これにはフランス国内の偶然的要素がかなり作用している。運命の悪戯と片づけるには、その後のアルジェリアが経験した植民地化の歴史はあまりにも過酷かつ悲惨過ぎると言えるが。ただし、やはり偶然の帰結であるということは強調しておかなければならない。
フランスではナポレオン没落後の1814年にブルボン王朝が復活するが(第二次王政復古)、1830年にその王朝が人気取りのために海外へ出兵した先がアルジェリアだった。同年に7月革命が起こり、ブルボン王朝は潰れるわけであるが、フランスによるアルジェリア占領はその後もずっと続いてしまうのである。
ナポレオン戦争中、フランス軍アルジェリアから穀物を徴収したが、その対価を払わずに踏み倒した。1827年アルジェリアの太守(デイ、オスマン帝国から派遣されていた総督)フサイン・パシャは催促したのだが、その交渉の中で太守がフランス領事ピエール・デヴァルを扇で叩いた。この些細な出来事がフランスが軍隊を派遣する口実になり、軍事占領に至るという、悪い冗談のような結果に至った。借金をしている方が面の皮が厚いのか、踏み倒しておいて、逆に占領するという方向に向かったのだ。
したがって、フランスはとにかく明確な目的があって占領を開始したわけではないということが強調されてしかるべきだろう。フランスはアルジェリアを占領してみたものの、太守たちがいなくなったため、国が混乱し始める。ちょうどアメリカがイラクを占領した後の状態と同じである。フランスのアルジェリア占領も、国内問題への関心を外に振り向けるために軍隊を派遣し、占領に抵抗した地方政権を潰してしまった。しかし、そのまま放っておくと大変なことになるので軍隊は本国に戻れなくなった、という悪循環に陥ったのである。
オスマン帝国から派遣されてきた太守の政権が倒れ、それに代替するものがフランス軍しかなかった。現地の人々の間でそのようなフランスの占領に対する反発が出てくるのは当たり前だ。そのような混乱した状態の中で登場したのが、民族運動の指導者としてよく知られているアブドゥルカーディル・ジャザーイリー(1808 - 83)なのである。
アブドゥルカーディルはアルジェリア西部のカビール地方の出身である。新興勢力として登場し、その勢力を次第に伸ばしていった。彼はカーディリー教団という、スーフィズムイスラーム神秘主義)のタリーカ(教団)のネットワークを有しており、急速にフランスに対する抵抗の組織を広げていった。
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残念ながら、アブドゥルカーディルは1847年に敗北して指導者の座を追放される。しかし、ルイ・ナポレオン3世)の時代に、彼は牢獄から解放され復権する。フランスは、ナポレオン3世時代になると、現地の勢力を利用しながら支配するかたちに少しずつ方針が変わっていったが、アブドゥルカーディルの解放はその象徴的なエピソードである。幕末にあたる1864年から68年まで駐日フランス公使として日本に赴任したレオン・ロッシュ(1809-1901年)もアブドゥルカーディルと深い関わりを持っている。ロッシュは1832年からおよそ32年間の名が気にわたってアルジェリアをはじめとする北アフリカに滞在した。彼はアラビア語にも堪能で、フランス軍の通訳官としても活躍した。そのため、ロッシュはアブドゥルカーディルとも対仏抵抗を止めるよう交渉したことでも知られている。
アルジェリアでは、単に軍隊を駐留させるだけではなくして、現地の人たちの土地を収奪しながら、そこに乗っかった上で農業経営が始められた。フランスやスペイン、イタリアから入植者たちがどんどんと入ってくる。それがアルジェリアにおける問題を引き起こしていくことになった。
土地は、フランス本国からやって来たお金を持っている人たちによって経営された。現地の人々は、小作化、または土地そのものから切り離され都市労働者、あるいは農村での労働者になっていった。土地という生産手段から切り離される状況が生まれたのである。そういうことから生活が成り立たなくなったので、人口が急激に減少、つまり多くの現地の人々は死亡することになった。
このような過酷なやり方でアルジェリアはフランスに植民地化された。中東において植民地化の最も過酷な形態と言ってよいかと思われる。1950年代終りから60年代にかけて、独立戦争が起こったが、その戦争も激烈を極め、100万人以上の人々が亡くなったと言われる。

じじぃの「中国の特殊部隊・プレッシャーが招く過剰反応!事実はなぜ人を変えられないのか」

要請なしに香港の中国軍が活動?デモ隊の障害物撤去(19/11/17)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SgaqWGz5hKo

パニックなニャンコ

報道1930

2019年11月28日 BS-TBS
【キャスター】高畑百合子、松原耕二 【コメンテーター】堤伸輔(雑誌編集者) 【ゲスト】藤崎一郎(元駐米大使)、木村太郎(ジャーナリスト)、津上俊哉(日本国際問題研究所・客員研究員)、小原凡司(笹川平和財団上席研究員)

香港に駐留する人民解放軍の軍人が、16日に市街地へ出て道路を封鎖する柵やれんがを撤去する「ボランティア活動」に参加した。

●なぜ? 中国人民解放軍の特殊部隊が香港に
小原凡司氏は彼らの背中の文字(「雪楓(雪楓特殊戦大隊)」に注目した。
雪楓特選営とは新疆ウイグル自治区などの西部地区を担当する精鋭の特殊部隊。
シャツに書かれたオオカミのマークはその中でもテロ制圧を担当する者(対テロ特殊部隊)を意味する。
小原凡司、「中国共産党が香港をテロが起こっている地域と断定。その抗議活動をテロ行為として弾圧するためにそうした部隊が既に香港に入っていることを見せて抗議活動をしている人たちに恐怖を与えるという目的がある」
米国で「香港人権民主主義法」が成立したことについて。
木村太郎、「ユダヤ人から見ればウイグル弾圧はホロコーストと同じに見える。米国にはユダヤ人が多い。米国は今後きびしく中国の人権弾圧にあたるだろう」
https://www.bs-tbs.co.jp/houdou1930/

『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』

ターリ・シャーロット/著、上原直子/訳 白揚社 2019年発行

プレッシャーが招く悲観主義 より

脅威にさらされると、あらかじめプログラムされている心理的反応が引き起こされる――ストレスだ。進化が私たちにこの反応を見につけさせたのは、それが生存に役立つからである。たとえばあなたが野生のアンテロープ(ウシ科の動物)で、1頭のライオンがこちらに向かって突進してくるとしよう。たちまちコルチゾールのようなストレスホルモンが分泌されて、心拍数の増加や息切れなどの連鎖反応が生じる。無駄なことに使う余力はないから、緊急性のない機能はいったん休止だ。免疫系や消化器系、生殖器系が一時的に良く製される。傷の治癒や1時間前に飲み込んだものの消化にかまけている暇はない。もっているすべての力を、「その瞬間を生き延びる」という1つの目的に集中させるのだ。
人間は、アンテロープが経験するような差し迫った危険に身をさらすことはめったにないが、それでも頻繁にストレスを感じる。返済中のローンでも、仕事の締め切りでも、競技場での手強いライバルでも、身体はそれらに反応してコルチゾールを分泌する。
ラッシュ時の交通渋滞や、なかなか進まないスタバの列といった比較的穏やかな状況さえ、本格的なストレス反応を引き起こしかねない。
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このメカニズムには、間違いなく利点があるはずだ。あなたがアンテロープで、まわりにお腹の空かせたライオンがたくさんいたとしたら、捕食者が近くにいることを示す兆候を見逃したくはないだろう。治安の悪い地域に住んでいる場合も同様で、危険な空気を敏感に感じ取ることで、命が助かることもある。

問題は、こうした本能が過剰反応の原因にもなる得る点だ。

たとえば、カリフォルニア州地震があると、アイオワ州に住んでいるにもかかわらず高額な地震保険に加入する人がいる。別の例として、2015年11月13日に起きたパリ同時多発テロ事件について考えてみよう。光の都パリの一般市民が襲撃されたニュースは、瞬く間に世界中を駆け巡った。あらゆる地域の住人が身の危険を案じ、結果として世界的なパニックが起きた。これによって人々は、ネガティブなマスコミ報道を過度に警戒するようになり、続いて生命の危険を必要以上に懸念するようになった。そしてしばらくは「安全策」を採って、外出するよりも家に閉じこもり、大都市へ行くのを避けた。

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どうでもいい、じじぃの日記。
人間以外で、顔の表情が変化する動物はいるのだろうか。
ニャンコはパニックに陥ると、顔に変化が出るみたいだ。