じじぃの「カオス・地球_476_人類はどこで間違えたのか・第3部・宮沢賢治の世界」

おいの狼森とざる森、めすと森

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=d-OKzqrWRlQ


狼森と笊森、盗森

宮沢賢治
青空文庫
 小岩井農場の北に、黒い松の森が四つあります。いちばん南が狼森(オイノもり)で、その次が笊森(ざるもり)、次は黒坂森、北のはづれは盗森(ぬすともり)です。
 この森がいつごろどうしてできたのか、どうしてこんな奇体な名前がついたのか、それをいちばんはじめから、すつかり知つてゐるものは、おれ一人だと黒坂森のまんなかの巨(おほ)きな巌(いは)が、ある日、威張つてこのおはなしをわたくしに聞かせました。
 ずうつと昔、岩手山が、何べんも噴火しました。その灰でそこらはすつかり埋(うづ)まりました。このまつ黒な巨きな巌も、やつぱり山からはね飛ばされて、今のところに落ちて来たのださうです。
 噴火がやつとしづまると、野原や丘には、穂のある草や穂のない草が、南の方からだんだん生えて、たうとうそこらいつぱいになり、それから柏(かしは)や松も生え出し、しまひに、いまの四(よ)つの森ができました。けれども森にはまだ名前もなく、めいめい勝手に、おれはおれだと思つてゐるだけでした。するとある年の秋、水のやうにつめたいすきとほる風が、柏の枯れ葉をさらさら鳴らし、岩手山の銀の冠には、雲の影がくつきり黒くうつゝてゐる日でした。
 四人の、けらを着た百姓たちが、山刀(なた)や三本鍬(さんぼんぐは)や唐鍬(たうぐは)や、すべて山と野原の武器を堅くからだにしばりつけて、東の稜(かど)ばつた燧石(ひうちいし)の山を越えて、のつしのつしと、この森にかこまれた小さな野原にやつて来ました。よくみるとみんな大きな刀もさしてゐたのです。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1926_17904.html

『人類はどこで間違えたのか――土とヒトの生命誌

中村桂子/著 中公新書ラクレ 2024年発行

気候変動、パンデミック、格差、戦争……20万年におよぶ人類史が岐路に立つ今、あらためて我々の生き方が問われている。独自の生命誌研究のパイオニアが科学の知見をもとに、古今東西の思想や文化芸術、実践活動などの成果をも取り入れて「本来の道」を探る。

第3部 土への注目――狩猟採集から農耕への移行と「本来の道」 より

31 「『私たち生きもの』の中の私」の再確認

森が求める生命誌的世界観
(『狼森と笊森、盗森』作品の中で)宮沢賢治の言う「みんな」、つまり「『私たち生きもの』の中の私」に求められる世界観は「機械論」ではなく「生命誌論」です。拡大・進歩・効率に価値を置き、大型化・一律化をめざすのではなく、内発的発展を求めて、むしろ小型・多様を大切にします。中沢新一さんの分析によれば、形而上学革命を行った近代の西ヨーロッパで「一神教」「国民国家」「資本主義」「科学」を有機的に結合した現代社会がつくられました。それが世界中に広がっているのが今です。
ここにあげた一つひとつの事柄は、それぞれ意味があって生まれ、その役割を果たしてきた――今ももちろん果たしているのであり、それぞれ評価が必要です。けれども、これらが合わさってできている今の社会に、さまざまな問題があることも事実です。これらを絶対もものと捉えずに、生き方を考える必要があります。

生命誌から生まれる世界観を具体的に示すために、私たちが暮らすのは「炭素社会」であるという例を考えます。

地球は今温暖化を通り越して「沸騰」ではないかという声も聞かれます。面倒なのは、気候という現象は一対一の因果関係で説明できるものではないということです。因果で考えることに慣れている私たちは、現在の温暖化の原因は私たちの暮らし方にあり、即刻その見直しをしなければならないという気持ちになりにくいのです。でも、生きものの歴史、人類の歴史を追うなら、自然離れをして、自然から独立した世界をつくることはできないし、それが快い生き方とはいえないことがわかります。

最近「水素社会」という言葉をよく聞きます。人間が二酸化炭素を排出し過ぎ、それが温暖化の原因だというのなら、エネルギーを水素で支える社会をつくればよいではないかという発想です。確かに水素を燃やした時に出るのは水ですので、なんだかとても良い考えに見えますが、水素をどのようにして手に入れ、どのように循環させるのでしょう。そんな世界をつくれるのかと考えると、疑問が次々に生まれます。自然界は炭素の循環でできており、その中に私たち人間も存在しているからこそ、その中でエネルギーを得る生活ができているのです。

狩猟採集生活では、豊かな森林や海の中のプランクトンなどが光合成で固定してくれる炭素で充分、いや充分すぎるほどでしたから、恐らくその生活であれば何の問題もなく暮らし続けられたでしょう。けれども農耕を始め、さらには工業化、情報化社会へと進んだ今、地球の持つ循環能力をはるかに超える二酸化炭素を輩出しているのです。この問題の解決は、炭素循環についてよく知り、循環が滞りなく進むような暮らし方を考え出すというところにしかありません。

小惑星リュウグウ」で採取したサンプルの中に炭素化合物が存在し、RNAの成分であるウラシルやニコチン酸(ビタミンB3)など、生き物に必要なものが見つかっています。
生きものをつくる炭素化合物は宇宙に存在するということもあり、この宇宙で暮らす生きものは炭素化合物を主軸した系の存在が自ずと浮かび上がるのですから、この宇宙で暮らす生きものは炭素を主軸とした系になると考えられます。「水素社会」はありません。

人間はどのような存在であるかを忘れて一面的に科学技術を進めるのは、未来へと続く生き方ではありません。40億年という生きものの歴史を否定して、まったく新しい機械としての人間が存在するという選択があるとは思えません。46億年の地球、40億年の生きものの歴史を踏まえた未来を考えるのが妥当でしょう。それには森との会話から始め、土を生かした農耕を基本に置くことです。

生成AIの登場で問われること
AIは道具として使いこなすこなすものであって、人間の代わりをするものではなく、ましてや人間と比べてAIが人間を超えると考えるのは間違いです。人間として生きること、つまり自分の身体と脳を使って考え、判断し、行動することが私たちが存在している意味だということを忘れたらどうなるでしょう。

『サピエンス全史』を書いたY・N・ハラリは、人類は長い間苦しんできた「飢餓と疫病と戦争は対処可能な課題になった」と書きましたが、まったくそうではないことは誰の目にも明らかです。
農耕社会以来の人類の発展は、本質的に飢饉と疫病と戦争への賢い対処とは言えない方向へ動いてきました。世界中の子どもが安全で美味しい食べものを口にして笑顔になり、疫病への対処は充分で戦争などしない社会を意識して、私たちの暮らし方を考えることがとても大事になっています。農耕の進め方から考え直し、自分でよく考え、生き方を探っていく他ありません。