じじぃの「カオス・地球_473_人類はどこで間違えたのか・第2部・新しい物語」

生命誌 - 文化としての科学を求めて - 中村 桂子 - 第7回 京都大学 - 稲盛財団合同京都賞シンポジウム(2021年2月16日)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BDSrMMgci24

「私たち生きもの」の中の私


コロナ禍を経て【前編】ウイルスとの戦いでなく「生き物の中で生きる」新しい生き方をー中村桂子JT生命誌研究館名誉館長

2021.07.13 Science Portal
「中から目線」が本当のホモ・サピエンス
生きものの世界を考えていくと「私たち」という言葉が生まれます。「私たち生き物」という意識を自分の中に持つ、「私というのは私たち生き物の中の私なのだ」。そういう生き物の広がりの中に自分を置くことができる。ウイルスもいる。私たち(人間は)は生き物の世界で生きる。そういうことだと思っています。

中村氏は「私たち生き物」という意識を自分の中に持つことの大切さを強調した。
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/highlight/20210713_e01/

『人類はどこで間違えたのか――土とヒトの生命誌

中村桂子/著 中公新書ラクレ 2024年発行

気候変動、パンデミック、格差、戦争……20万年におよぶ人類史が岐路に立つ今、あらためて我々の生き方が問われている。独自の生命誌研究のパイオニアが科学の知見をもとに、古今東西の思想や文化芸術、実践活動などの成果をも取り入れて「本来の道」を探る。

第2部 ホモ・サピエンス20万年――人間らしさの深まりへ より

20 人間として生きる――物語の必要性

「話す」から「語る」へ
私たち(ホモ・サピエンス)の大きな特徴は言葉を持つことであり、現代社会での生活も言葉あっての毎日です。家族より大きな仲間をつくって共同で狩りなどができたのは、細かな指示を出せる言葉があったからでした。それに加えて、いわゆる「うわさ話」という形で人々のありようを知ってそれを他の人に伝えることもよく行われていたという考え方が出ています。「うわさ話」となると単に目の前にあるものや人について話すだけでなく、そこにはいない人について話す場合もあり、時にはつくり話もまじっていたに違いありません。

このような行為は「話す」というより「語る」といった方があたっています。古代の人々は実際に野外へ出て狩猟採集をしている時間はそれほど長くはなかっただろうと考えられています。現存の狩猟採集民の暮らしぶりにもそれは見られ、食事の用意をし、それを皆で共に食べ合う時間や休憩時間はたぅぷりあります。そんなときは皆でおしゃべりしていたに違いありません。少しまとまった時間に、今日見てきたことや体験してきたことを身振り手振りを交えて話している様子が目に浮かびます。

ユネスコで日本が推し進めた「文明間の対話」
ところで、ロシアがウクライナに侵攻し、日々激しい戦闘をくり広げている現在の社会は、生きることの基本に存在してきた「物語」を失っているように思えてなりません。それがこのような、とんでもない状況をもたらしているのではないでしょうか。
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ユネスコ憲章には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあります。この憲章と人権および文化的多様性に関する宣言を合わせると、人間としての本来の生き方が見えてきます。権力志向のリーダーや金銭計算のみの軍事産業など、まったく非人間的な判断で働いている今の社会は、ホモ・サピエンスとして恥すべき状態であることがわかります。今すぐに始めるべきは対話です。私たちは物語を持ち、対話するために言葉を持っているのだということを再認識しなければなりません。情報化社会と言われ、さまざまな手段によって世界にばらまかれている言葉には、無意味なものが多すぎます。

言葉は物語をつくり、対話をするためにホモ・サピエンスに与えられたものであり、対話でない形で使ってはいけないのではないでしょうか。対話の相手は人間に限られるものではなく、自然に向けての対話は、時に祈りにもなります。多様な物語を持つことの大切さは、現代社会が目を向けなければならない大きな課題です。

宇宙の中に「私」を位置づける
物語は世界観を語るものです。神話・説話では自分たちを取り囲む宇宙をどう捉え、その中で自分たちはどのような位置を占めているかが語られます。ここで図(私と生きものと宇宙の関係図)をもう一度見てください。そして、これまで語ってきた「『私たち生きもの』の中の私」はそのまま地球につながり、宇宙につながっていることを確認してください。生きものは地球に暮らす存在であり、地球は宇宙にある1つの星です。
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ハッブル望遠鏡もすばる望遠鏡も存在せず、自分の目で空を見ていた古代の人は、どうしても科学の目でものを見て」しまう現代人よりも、果てしない宇宙を感じていたに違いありません。大きなものに包まれている感覚は、今の私たち以上のものだったろうと推測します。
夜空には星がダイヤモンドの粒をまいたように輝いていたに違いありませんので、それらを眺めながら語り合ううちに自然界のくり返し(季節なども含めて)に気づき、その中で生きる生きものたちについての知識も増えていったでしょう。

宇宙の中に存在する私が、今ここで動植物たちと関わり合い、その死に直面していくことの意味を考える場としては、現代の都会よりは古代の暮らしの場の方が良質だっただろうと想像します。