カモノハシの進化|どうやって絶滅せずに生き残ったのだろうか?
カモノハシ
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カモノハシは遺伝子的に哺乳類でもあり鳥類でもありハ虫類でもあった
2021年01月12日 GIGAZINE
オーストラリアに生息するカモノハシは鳥類と同じ卵生ですが、子どもは哺乳類と同じく母乳で育ち、哺乳綱単孔目に分類されている通り、哺乳類の1種とされています。研究チームはオスのカモノハシを使って、2008年に塩基配列が決定されたカモノハシのゲノムマップを解析しました。
https://gigazine.net/news/20210112-platypus-bird-reptile-mammal/
『哺乳類の興隆史――恐竜の陰を出て、新たな覇者になるまで』
スティーブ・ブルサッテ/著、黒川耕大/訳、土屋健/監修 みすず書房 2024年発行
約3億年前に爬虫類の祖先と分かれたグループが、幾多の絶滅事件を乗り越えて私たちに至るまでの、途方もない歴史を描く書。
第2章 哺乳類が出来上がるまで より
ペルム紀末、現在のロシアに当たる地域には多くの獣弓類が生息し、火山地帯からそう遠くない場所で暮らしていた。ゴルゴノプス類がディキノドン類に犬歯を突き立て、キノドン類がシダ種子植物の森に身を潜めていた。それらの動物が噴火の直接の被害者となったにちがいなく。多くは低俗な災害映画よろしく文字どおり溶岩に飲み込まれただろう。
しかし被害はこれに留まらず、溶岩よりずっと恐ろしい火山の潜在的な脅威が露わになった。「サイレントキラー」と呼ばれる二酸化炭素やメタンなどの有害なガスが溶岩とともに湧き上がり、大気に放出され世界に拡散したのだ。これらは温室効果ガスであり、赤外線を吸収して地表に送り出すことで熱を大気に留める。おかげで急激な温暖化が起き、気温が数万年で5~8度ほど上昇した。
いま起きていることに似ているが、実は現在の温暖化よりはペースが遅かった(現代人に現状の再考を迫る事実だ)。それでも海洋を酸性化・貧酸素化させるには十分で。殻を持つ無脊椎動物やその他の海棲生物が広範囲で死滅した。
第4章 哺乳類の革命 より
ジョン・ハンターはおそらく史上2番目に有名なエジンバラ大学の中退者だろう。史上1位のチャールズ・ダーウインは1820年代に医学生になったものの、血が大の苦手という致命的な欠点がたたり「息子を医師に」という父の期待に応えられなかった。毎年秋にエジンバラ大学で海溝する1年生向けの進化学講座で、私はこう話すことにしている。「辛抱して卒業までこぎ着ければ、君たちはダーウインを超えたことになるよ」
ハンターもダーウインと同じく、その後大成した。1754年に大学を中退すると、あてどない赤者が古来そうしてきたように、海軍に入隊した。
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ハンターはオーストラリアを気に入ぅたが、現地での生活は一筋縄ではいかなかった。1788年初めに到着したものの、新天地の住に心地は聞いていたよりずっと悪く、そこでもっと快適な乳を求めてオーストラリア南東部の危険な沿岸部を探査した。やがてパラマッタ川の下流に、要害の地がありながら出入りが容易で、なおかつ豊富な炭水と肥沃な土壌に恵まれた入り江を発見する。この入り江こそが、ほどなく流刑植民地の中枢に発展する、のちの「シドニー」だ。
その後、ハンターはイギリスに呼び戻され、再び敗軍の一員としてフランス軍相手に奮戦する日々を過ごしたが、ある時オーストラリアへの再赴任を申し出た。ただし今度は一介の船長としてではなく、ニューサウスウェールズ植民地の総督としてだ。人事案は承認され、1795年に総督に就任した。しかし長続きはしなかった。悪徳将官が囚人と共謀し酒を密輸するのを阻止できず、1799年の年末に解任されてしまったのだ(ちなみにその密輸は犯人らに莫大な富をもたらし、のちの反乱の引き金になった)。
政治家としては役立たずだったハンターだが、少なくともその一因は本人の情熱が別の方向に向いていたことにあった。またもやダーウインと同じく、熱心な博物学者として、海外の滞在機会を世界中の植物や動物を観察することに利用していたのだ。総督時代には動物の皮や植物の標本を定期的にイギリスに送っていた。新しい標本を送るたびに、オーストラリアも植物相と動物相が極めて異様でヨーロッパとも新世界ともまったく異なることが明らかになっていった。他の大きな陸塊から完全に孤立しているこの島大陸には独自の生態系が発達していた。多くの哺乳類が無力な未熟児を産み育児嚢で育てていたが、ヨーロッパでおなじみのキツネ、アナグマ、クマ、ネズミにそうして子育てをするものはいなかぅた。さらに、オーストラリアの哺乳類群集にはもっと珍妙な種類がいることも分かった。
1797年のある日、本来は総督として腐敗の撲滅に励むべきときに、ハンターはシドニー北方のヤラマンディ潟でアポリジニの狩人が水中に潜むある動物の様子をうかがうのを、固唾を飲んで見守っていた。狩人の視線の先では、ウッドチャックほどの大きさの茶色の毛に密に覆われた動物が、呼吸のためにしきりに顔を出している。1時間ほど待ったあと、ついに狩人が動いた。手首のスナップを利かせ短い槍を濁った水面に放つ。しかし動物は大きな手足を必死に掻いて逃げていった。
ハンター総督は激しく困惑した。その日見たものを後日スケッチにし、知恵を絞って「モグラのたぐいの水陸両棲の生き物」と表現した。もっとも、その動物はモグラよりずっと大きく、水かきの付いた手足と、鋭い爪と、ビーバーのものに似た分厚く短い尾を持っていた。顔はまるでカモのようで、口には歯ではなくクチバシがある。実際のところ、モグラにはまるで似ていない。では、一体何なのか?
ハンターは動物の捕獲に成功し、アルコール入りの樽に詰めてイギリスに送った。標本がニューカッスルに届くと世間は騒然となった。哺乳類のようでも、鳥のようでも、爬虫類のようでも、魚のようでもある。
けば立った毛皮はいかにも哺乳類という感じだが、どうやら乳腺はないようで、しかも噂では「卵を産む」というおよそ哺乳類らしからぬ繁殖方法をとるらしい。動物を古くから知りカモとネズミの合いの子だと信じてきたアボリジニの人々によれば、動物は鳥のように巣を作るらしいかったが、イギリス科学界のお歴々そのは言葉を信じようとしなかった。牧師から博物館の学芸館の学芸員に転じたジョージ・ショーは、1799年にハンターの標本を記載し「カモノハシ(platypus)」と命名したものの、それが実在の動物かどうかさえ疑っていた。ジョーも他の多くの科学者も、それがおそらくは偽物で、ペテン師が色々な動物の一部を継ぎ接ぎしてこしらえた”フランクシュタインの怪物”なのだろうと考えた。
イギリス人がオーストラリア東部の探査を勧めると、開拓民がカモノハシを目撃する機会も増えた。それが実在の動物であることはもはや目白だった。カモノハシは川は湖に棲み、水かきの付いた前足で推進し尾で方向を変え、水中をすいすい泳いでいた。常に腹を空かせ、30秒ほど潜り、エビや虫やザリガニをくわえて水面に戻ってくる。この時代から100年以上後の研究によると、カモノハシのクチバシは検知装置になぅており、表面に分布する数万側の受容器で獲物の動きy電気信号を感知できる。そのおかげで視覚、嗅覚、聴覚を閉ざして水中に潜り、クチバシで水底の沼を掻き回してそこに潜む円のを感知するという芸当が可能になる。また、カモノハシが岸に上がり、長く鋭い鉤爪(水かきから熊手の歯のように突き出た鉤爪)で巣穴を掘る様子も時折観察された。巣穴は休憩所であり、同時にメスが子育てする場所でもあっらしかった。オスはというと、あまり子育てに熱心なタイプではなく、毒腺とつながった足首の蹴爪(けづめ)で他の雄を負かし、繁殖期の目的を遂げたあとは、メスに子育てを任せきりにする。
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系統樹には他にも注目すべき点があった。獣類と南楔歯類のあいだが広く空いていて、そこに他の多くの哺乳類の系統が入る点だ。南楔歯類は系統樹の根元近くに位置し、ドゴドン類からはそう遠くなく、モルガヌコドンなどの三畳紀後期~ジュラ紀前期の種類からは数段上の辺りにいる。かたや獣類は系統樹の樹冠を構成する。単孔類と獣類はともに最後まで生き延びているが、そのあいだには多数の絶滅系統が存在する。多丘歯類などの現代まで命脈を保てなかったいわゆる袋小路のグループが多々存在するのだ。
この事実が示唆することを考えると、少しぞっとする。単孔類はジュラ紀中期(かそれ以前)から脈々と続いた系統の末裔であり、かつて南半球を放浪した種類の最後の生き残りだ。そもそも現在まで生き残っていることが奇跡に思える。歴史の別の可能性を想像するのは簡単なことで、例えば単孔類の系統が白亜紀に消え、カモノハシとハリモグラが絶滅していた可能性もあっただろう。そうすると、毛に覆われた動物が巣穴を掘って卵を産み腹部から乳を滲ませるという、哺乳類進化の原始的な名残りを私たちが目にする機会は失われていたはずだ。あるいはまた別の歴史を想像し、ドコドン類や多丘歯類が現代までわずかに命脈を保ち、世界の片隅で暮らす姿を思い浮かべることもできる。ひとまず私たちは現代まで生き延びたカモノハシとハリモグラに感謝すべきだろう。周りが高級住宅街に変わるなかでアパートからの立ち退きを頑なに拒む老夫婦のようなことをしてくれたのだから。