じじぃの「カオス・地球_440_現代ネット政治=文化論・第7章・負け組・ひろゆき論」

ひろゆき】「あ~こいつ完全に負け組だわ」と思う瞬間がコレ。平気で友達とかに言ってたら恥ずかしいですよ。勝ち組のひろゆきが語る【切り抜き/論破】

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vvtttdky1Js&t=109s

ひろゆきが圧倒的支持を集める納得の訳


ひろゆきがここまで圧倒的支持を集める納得の訳 過酷な世界を生き抜く為の「価値観の断捨離」に共感

2022/08/21 東洋経済オンライン
今やコメンテーターとしてすっかりお茶の間に定着した実業家のひろゆき西村博之)氏。YouTubeのチャンネル登録者数は156万人、Twitterのフォロワー数は187万人(いずれも2022年8月13日現在)と、押しも押されもせぬインフルエンサーとして大活躍中だが、なぜこれだけの圧倒的な支持を集めているかについてはあまり分析が進んでいない。

巷では〝ひろゆきブーム〟という言葉で語られたりもするが、仮にこれが今という時代に特徴的なブームであるとするならば、多くの人々の潜在的なニーズを掴んでいるからだろう。その手掛かりは、2018年以降、すでに十数冊も出している自己啓発本からうかがい知ることができる。キーワードは、「『社会的な成功』から『個人的な幸福』へ」だ。
https://toyokeizai.net/articles/-/611227?display=b

『現代ネット政治=文化論――AI、オルタナ右翼ミソジニー、ゲーム、陰謀論アイデンティティ

藤田直哉/著 作品社 2024年発行

安倍元首相銃撃犯・山上徹也の深層、「推し」に裏切られた弱者男性、インセル陰謀論者、負け組、オタクたちの実存の行方、ニセ情報の脅威、倍速で煽られる憎悪…。揺らぐ民主主義と自由。加速するテクノロジー、そこに希望はあるのか!ネットネイティブ世代の著者が徹底検証。

Ⅶ ネット方面見聞録(『朝日新聞』2019年4月ー2023年12月) より

ひろゆき」に頼る者を非難できるか(2023年3月)

ひろゆき論」が話題である。ひろゆき西村博之)は、匿名掲示板の2チャンネル(現・5チャンネル)の創設者で、若い世代にはYouTuberやインフルエンサーとして知られている。彼の発言を精査した論が成蹊大教授の伊藤昌亮によって書かれ、岩波書店『世界』3月号に掲載され、ウェブでも公開された。

ひろゆきが「論破」芸で人気を得ている原因として、伊藤は「プログラミング思考」と「優しいネオリベ」というキーワードを挙げる。イーロン・マスクなど、現代社会の成功者たちにはプログラミングにたけた者が少なくない。プログラミングは、ひろゆきいわく、「論理的思考力、創造性、問題解決能力」を身に付けさせてくれる。いいことである。

「優しいネオリベ」とは、弱肉強食のネオリベラリズム社会でうまくいかない「コミュ障」「ひきこもり」「うつの人」などの(ひろゆきの表現で言う)「ダメな人」に対し、プログラミング思考を身に付け自助努力で稼いで成功することを指南する態度のことである。「リベラリズム」の福祉の網の目からこぼれ落ちたと感じやすい人々が、ひろゆきに希望を見いだし支持していると伊藤は分析する。

東京・赤羽の団地で育ったひろゆきは、「ダメな人」は周りに当たり前にいたし、「太古からずっといた」ので気に病む必要はないと言う。ここには彼らをエンパワメントし助けようとする善意があるようにも見える。だが、彼が体現している大きな問題が2つある。

1つは、世代の断絶だ。ゲームやネットに慣れ、社会や人間に「プログラミング思考」を当てはめる癖がついている世代にとって、それ以前の世代の感覚や認識は古く、それこそ時代遅れの「オワコン(「終わったコンテンツ」の略語)」に見えてしまう。しかし伊藤が指摘するように、その思考は浅く単純であり、人間や社会にある複雑さを捉え損ねるという欠点がある。

そしてもう1つの大きな問題は、ひろゆき的な「論破」や「ライフハック(生活や仕事を効率化するテクニック)」に救いを求める「ダメな人」が生み出される社会そのものである。知識社会を生き抜き、AI(人工知能)などによる産業構造の変化に適応し続ける能力が求められる現在、「普通」に生きるだけでも本当に大変で、そこに届かない「負け組」の絶望にはすさまじいものがある。

結婚や子どもを持つことは昭和の頃には「普通」と思われていたが、非正規雇用も多い若い世代にはとてつもなく難易度が高い。子どもを大学まで行かせる費用を計算すると「とても無理」と諦める人が続出するのも理解できる。自殺率が上がったり、「人間は生まれてこない方がよい」と考える反出生主義が流行ったりするのも、よくよく理解できる。

そういう社会にした元凶こそがネオリベラリズムだと思うのだが、しかしそこでなんとか生き延びるために、ひろゆきネオリベに頼る者を、頭ごなしに非難できるだろうか。そうではなく、「ダメな人」でもそこそこ幸福に生きられる社会に変えていくのが、必要なことではないのだろうか。