じじぃの「カオス・地球_435_現代ネット政治=文化論・第3章・アニメ・ドラゴンボール」

海外でも大人気!?海外のドラゴンボール事情特集

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=OlwfIbEX6yY

フランスのスーパーマーケットにある「マンガ」コーナー


ドラゴンボール」が世界中で愛された“意外な”理由【マンガが変えたフランス人の日本観】

2024.7.14 ダイヤモンド・オンライン
マンガやアニメ、日本食を通して日本文化がフランスで熱烈な人気を集めている。
そして、現在の日本ブームに一役買っているのが、次期フランス大統領候補の一人だというから驚きだ。アニメやマンガのおかげでフランス人が日本人を見る目も随分と変わってきたという。ツール・ド・フランス取材歴30年のジャーナリストが自身が体験したフランス人の変化を綴る。
https://diamond.jp/articles/-/347022

『現代ネット政治=文化論――AI、オルタナ右翼ミソジニー、ゲーム、陰謀論アイデンティティ

藤田直哉/著 作品社 2024年発行

安倍元首相銃撃犯・山上徹也の深層、「推し」に裏切られた弱者男性、インセル陰謀論者、負け組、オタクたちの実存の行方、ニセ情報の脅威、倍速で煽られる憎悪…。揺らぐ民主主義と自由。加速するテクノロジー、そこに希望はあるのか!ネットネイティブ世代の著者が徹底検証。

Ⅲ オタク文化とナショナル・アイデンティティ より

「萌え」以降のオタク――森川嘉一郎のオタク観

繰り返すが、その後、オタクという集団がナショナル・アイデンティティに包摂されてしまうに至る経緯の心理的な動機を考えるに、アイデンティティの不安定さと、社会的なバッシングに起因する自己肯定感の少なさという観点は見逃すことはできない。

2000年代に宮崎駿押井守大友克洋らの作品が国際的な映画祭で上映されたのを契機に、オタク文化を芸術的に認める機運が訪れる。また、それを国家や権威が認めていく流れも出来ていく。

その中でオタク文化ナショナリズムの関係を考えるうえで重要と思われる言説を検討したい。森川嘉一郎の『趣都の誕生――萌える都市アキハバラ』である。

森川嘉一郎は2003年に刊行された本書の中で、オタクたちについてこのように述べている。「オタクやその文化が被差別的な存在だということ」(19頁)、「広告代理店的に商業開発されたような街にあっては、心情的にアウトサイダー、あるいはマイノリティーであらざるを得なかった。(…)秋葉原という趣都を見出し、あたかも民族が自決しようとするかのようにそこへ集まるようになったのである」(60頁)。
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オタク文化は、元々「敗者」の文化という性質があった。それは第1義に、戦後日本がアメリカに負けた後に発展したという意味である。森川は、そのような勝者の文化=支配的文化を変質させる、隠れた復讐のような文化としてオタク文化を見ている。そして、「萌え」や「美少女」などのキャラクター文化が中心になぅたのは、「高度成長」「科学技術」のもたらす未来の喪失と関連しており、それを補うためだとしている。そして、このオタクという、「趣味」「興味」を中心として生れる集団を、民族やエスニック・コミュニティに喩えているのだ。

彼は第9回ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展・日本館のキュレーションを行っているのだが、そこを「侘び・寂び・萌え」というキャッチフレーズを発表している。オタク文化が、今のように「かわいい」キャラクターへの愛着を中心とする文化に変わったのは2000年代だが、そのキャラクター文化における中心的な美学である「萌え」とは、サンリオのキャラクターなどを愛でるかのように、弱く儚い存在を愛でる美学であろう。ここには、弱い者、劣った者、輝いていない者への嗜好という共通性において、オタク文化の美学と伝統的な美学を接続させる試みが見いだせる。

「萌え」の美学が日本で大衆化したのは2000年代だが、そこにはバブル崩壊に起因する日本の自信喪失と、若者たちの苦境が関係していると思われる。

「萌え」は弱いものを愛でる美学であり、2000年代に流行ったKeyやLeafなどのメーカーが作った美少女ゲームでは、運命に敗北し散っていく無力な少女たちが多く描かれ、ユーザーはそれに共感していた。そして、オタクたちは、エロゲーやエロ漫画などにおいて、男性的な「犯す」主体にではなく、犯される少女の側に自己同一化しているのではないかという議論が当時起こっていた。

それは、当時の状況における、いわゆる「男性性」の強くない男性たちによる自己憐憫の投影という側面もあっただろう。宇野常寛はそれを「レイプファンタジー」と呼び、「家父長制」と結びつけて批判したが(『ゼロ年代の創造力』)、筆者はそう単純ではないと思っている。不況により就職や結婚や家庭を持つことが困難になり、従来の「大人」「男」になる回路が閉ざされ、自信を失った男性たちは、単に弱い二次元のヒロインを疑似的に所有することで家父長的な欲望」をも仮想的に満足させようとしていただけではなく、同時にか弱くトラウマを負った少女に自己を投影していたのではないかと推測されるのだ。弱い少女を救おうとし、それができないことによる無力さが描かれることが多かったが、そこに自己救済の願望や「男」「大人」になることが困難な時代における自己受容の葛藤を読み取ってもいいだろう。後の「弱者男性」論につながってくる問題である。

オタク文化で描かれる意匠は、科学技術立国としてGDP世界第二位の経済大国であり、重化学工業がナショナル・プライドになっていた時期には科学やメカが中心だったわけだが、バブルが崩壊して自信を失った結果、弱々しく可憐な美少女や、サンリオなどのかわいいキャラクターが中心となっていった。90年代のドラゴンボールを代表するジャンプ漫画では無限の成長と成功を描く傾向があったが、「科学技術立国」としてのアイデンティティが他国の経済・技術的成長によって後退していく、右肩上がりの成長の時代でなくなった。その結果として、「萌え」の美学や「空気系」「日常系」のようなコミュニケーションの美学、「推し」のように育てる美学にサブカルチャーの中心が移行していったのだ。それは、旧来の「男らしさ」の価値観からすればマイナスに評価されるのかもしれないが、無限の成長を志向する男性的な近代から「成長の限界」を踏まえた上で成熟したケア的なものの主体であろうとする現代への移行期として肯定的に考えることもできるだろう。

この「弱さ」は、オタクたちの自己認識や、ナショナルアイデンティティとも言説上の布置の結果、重ねられていくことになる。森川が、オタクを、被差別者・マイノリティであると述べ、「民族」に喩えたことを思い出してほしい。オタクという趣味を中心としたアイデンティティは不安定であるがゆえに、反差別・マイノリティ運動とのこじれを生みやすく(ある時期には男性中心の、ある時期以降はマジョリティ文化になってしまったにもかかわらず、被差別・マイノリティ意識を持っているので)、「民族」「日本」などと結びつきやすい傾向を持っている。もちろん、これは森川の言説の責任というわえではなく、オタクというアイデンティティ・概念の構造的な問題と時代的な条件によって、そうなりやすい傾向が生じているのではないかというのが、筆者がここで主張したいことである。