【ゆっくり解説】次元の違う神作画で超能力者を描くSF超大作!!AKIRA
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AKIRAのあらすじやネタバレ考察などを徹底解説!
2024-5-9 エンタミート
AKIRAは、第三次世界大戦が終わった後のネオ東京を舞台にした作品です。世界に大きな影響を与える謎に満ちた存在・アキラを巡る争いに巻き込まれる少年の運命を描いたSF超大作として知られています。
今回は、そんなAKIRAの漫画映画のあらすじや相違点、意味深だと話題になっているセリフ、裏設定について解説していきます。まるで現代社会を予言しているのではないかと思わせるような描写も複数ある作品なので、SNSで話題になったことがきっかけで興味を持つようになったという人もいるはずです。AKIRAという作品に関する理解をより深めたいという人は、ぜひ目を通してみてください。
https://dream.jp/entmeet/article/60c2fbe6cc0e2d3ecc1f07c2/
『現代ネット政治=文化論――AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』
藤田直哉/著 作品社 2024年発行
安倍元首相銃撃犯・山上徹也の深層、「推し」に裏切られた弱者男性、インセル、陰謀論者、負け組、オタクたちの実存の行方、ニセ情報の脅威、倍速で煽られる憎悪…。揺らぐ民主主義と自由。加速するテクノロジー、そこに希望はあるのか!ネットネイティブ世代の著者が徹底検証。
Ⅲ オタク文化とナショナル・アイデンティティ より
マイノリティ文化としての「オタク」起源
「オタク」とは何なのか、何者なのかというアイデンティティ問題もまた、オタク文化の中で問われていくことになる。有名なものは『機動戦士ガンダム』(1979-1980)で、1作目と2作目『機動戦士Z(ゼータ)ガンダム』(1985-1986)の主人公は、機械が得意な内攻的な少年に設定されている(親は技術者や科学者である)。これは熱血で前向きな主人公が多かった当時のアニメにおいては異例のことで、総監督の富野由悠季は、現代風の若者を敢えて主役に設定したと述べている。
『ガンダム』は、ロボットの操縦には天才的な力を見せる彼らを「ニュータイプ」と呼び、大地の重力を振り当てようとする彼らを肯定するのか否かが中心的なドラマになっているが、それはすなわち、オタクたちをどう受け止めるべきなのかの思想的葛藤のドラマの寓意なのである。(『∀ガンダム』(1999-2000)などで、大地と、日本の土着的な祭りを結びつけた描写をしていることから推測して、大地とは、伝統的な価値観の寓意であろう)。
この頃の「オタク」とは、単にアニメやマンガが好きというよりは、ある気質の持ち主たちを指しているように思われる。それは高度消費社会を前提とした存在であるが、明らかに工業や理系的なものとの結びつきも強い。筆者の仮説としては、戦後日本が科学技術立国になった結果、戦前までの社会では能力を発揮しにくかった。科学や技術に強い脳神経の特性を持った人々の活躍する場が急速に拡大し、その結果、それまでは抑圧されていたであろう「オタク」的な器質を持った人々が独自の文化を形成するにまで至った。それが初期のオタク文化の特質だったのではないかと思われる(秋葉原も、80年代頃は電気街であり、機械の部品などを売っている街であった)。
オタクというアイデンティティの不安定さ
そのような非常に不安定な地位にあった新興文化であるオタク文化の担い手であるオタクたちのアイデンティティは、安定を求めて様々なものに結びつこうとする傾向があった。たとえば、伝統的な日本文化との連続性を求める言説が発せられ、それが(事実の検証抜きに)熱狂的に受け容れられる現象が起こる。
典型的な言説が岡田斗司夫『オタク学入門』である。東京大学での講義をベースにした書籍であり、そうであるだけに学術的な権威性を持って機能した書籍なのだが、そこでは「オタクは日本文化の正統継承者である」(『オタク学入門――東大「オタク文化論ゼミ」公認テキスト』358頁)。と断言されている。そこでは、オタク文化は「粋」や「通」などの、伝統的な日本の価値観を継いでいると主張される。浮世絵や鳥獣戯画などとアニメマンガを結びつける言説もそうであるが、オタク文化が伝統的な日本に対して異質で連続性のない文化ではなく、連続性のあるものだと主張したいのである。
この主張に関しては、批判も含めて様々な議論があるが、これらの主張が必要とされた背景として指摘しておきたいのは、宮崎勤による幼女連続殺人事件である。1988年から1989年にかけて幼女を連続で殺した犯人の部屋がビデオテープで溢れていたので、マスメディアなどは「おたく」と「犯罪」を結びつけバッシングするという風潮があったのだ。オタクたちは、このようなバッシングから身を守らなければならないという危機意識で、様々な言説戦略を行ったのだと推測される。
日本文化との連続性を強調する議論に対し、大塚英志や東浩紀は切断を強調した。大塚は、手塚漫画に対するロシア・アヴァンギャルドの影響を強調し、オタク文化と戦後民主主義の関係性を論じている。既に論じたように、東浩紀は、端的に、アニメなどはそもそもアメリカ文化であり、アメリカ産の材料を使って作られた疑似日本なのだと述べている。
実際、日本初の長編アニメーションである瀬尾光世演出『桃太郎 海の神兵』(1945)は、ディズニーの『ファンタジア』(1940)の影響を受けている。国策によって作られたプロパガンダ映画において、敵国であるアメリカの作品を摸倣し、表面上は日本的意匠で覆ったという長編アニメーションの起源を考えれば、後の日本のアニメにもその性質はあり続けるだろう。
日本初のテレビで連続して放映された本格的なアニメーションである『鉄腕アトム』(1963-1966)の海の親・手塚治虫は、『桃太郎 海の神兵』を見て感動したことが、アニメを作る動機に影響したと言われている。ちなみに、ディズニーのアニメーションは1920年代には作られており、1920-40年代には、既にカラーでヌルヌル動くアニメーションが実現しており、技術的にも芸術的にも明らかにアメリカが先行しており、それを日本は後から摸倣したというのが、歴史的事実である。そのようなアニメを中心とするオタクのアイデンティティが不安定になるのも、必然的なことなのではないか。
そのような起源に由来する部分だけでなく、社会的な包摂や許容の問題も、オタクというアイデンティティが不安定となった理由にあるだろう。オタクという存在が表舞台に出るのは、2003年の秋葉原ブームで、それ以前には、オタク文化は社会的にも国家的にも承認を得ていなかった。低俗で幼稚で下等な文化とみなされており、それを愛好する人々は極めて強い自己否定を内面化せざるを偉かった。だから、アニメーションの内容にも、どちらかと言えば反社会的な態度や表現が目立ち、カウンターカルチャー寄りのものであった。『新世紀エヴァンゲリオン』も、『AKIRA』も、国を含めて、自分を取り囲んでいるシステムも何もかもぶっ壊してやるという衝動の方が強く目立つ作品なのだ。