じじぃの「カオス・地球_343_日本人の精神構造史・第4章・渋沢栄一」

渋沢栄一と日本の資本主義

2021年4月20日 東京新聞
◆近代日本を創った人 国学院大教授・杉山里枝さん
「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一ですが、それだけの人ではありません。
福祉や教育など社会事業にも取り組み、米国からの青い目の人形受け入れに尽力するなど民間外交でも功績を残しました。だから、私は彼を「近代日本を創った人」と考えています。
渋沢の根底にあったのは「日本を良くしたい」という思いです。幕末に欧州を訪れた彼は、近代国家と発展した産業を見ました。日本もこういう国にして世界で存在感を持てるようにしたい。そう考えた彼は、まずは近代的な会社をつくり、経済を強くしようとしました。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/99251

すぐ忘れる日本人の精神構造史

【目次】
はじめに
序章 民俗学の視点で日本の歴史を見るということ
第1章 日本人のマインドは、縄文ではなく稲作から始まった
第2章 武家政権が起こした社会変化
第3章 信仰、道徳、芸能の形成

第4章 黒船来航、舶来好き日本人の真骨頂

第5章 敗戦、経済大国、そして凋落へ

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『すぐ忘れる日本人の精神構造史―民俗学の視点から日本を解剖』

新谷尚紀/著 さくら舎 2024年発行
生活が苦しくても「しかたがない」と我慢する、責任追及をせず問題点をふわっとさせたまま何となく進み、やがて忘れる――そんな日本人の思考や行動の傾向性は「稲作を土台に、律令制+荘園制+武家政権の時代」を経て培われてきたといえる。本書では日本の歴史の経歴、慣習の積み重ねを民俗学の視点から歴史を追跡することで、どうやってそのような日本人が育まれたのかを知り、これからの社会のあり方、日本人のあり方を考える。

第4章 黒船来航、舶来好き日本人の真骨頂 より

経済力の強化

渋沢栄一と『論語と算盤』
政府が殖産興業をめざすといっても、具体的にはやはり資金・資本が必要です。新政府の財源には限度があり、民間の会社の育成と成長のためには、産業革命にともなう資本主義のしくみを整える必要があります。その基本は、資金を融通してお金を循環させ、生産と流通と消費というしくみを整備していくことです。つまり、産業の成長には金融の成長も必要になります。

その中で第一国立銀行東京証券取引所など多種多様な企業の設立から経営にかかわり、抜本的な社会構改造を経て明治の日本、ひいてはいまの日本の資本主義の根幹となるしくみを整えていったのが、渋沢栄一(1840~1931)でした。武蔵国榛澤郡血洗島(現在の深谷市)の出身で、生家が農業と養蚕と藍玉(あいだま)の製造販売を兼業する比較的裕福な農家でした。その長男として、1840年天保11)に生まれます。薩長藩閥の出身でもなければ武士の身分でもありませんでした。

人生の転機となったのは、1867年(慶応3)2月から開催されるフランスのパリ万博への派遣団の一員に加えられたことでした。渋沢は徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に仕えており、将軍の名代として弟の徳川昭武(とくがわあきたけ)がその派遣団を率いていたのです。約1年半のフランスをはじめとする西欧での海外体験は、渋沢栄一に大きな影響を与えました。一行はスエズ運河経由でフランスのマルセイユに着きましたが、それを出向かえた名誉総領事の銀行家フリュリ=エラールを先生にして、渋沢は株式会社のしくみからはじめ、ありとあらゆる金融しシステムについて学ぶことができました。銀行家のフリュリ=エラールが渋沢に教えのは、その当時ナポレオン3世の第2帝政時代にはほぼ完成をみていたサン・シモン主義的な社会経済システムです。

サン・シモン主義というのは、アンリ・ド・サン=シモン伯爵が唱道した社会理論で、社会の富の根源は生産にあり、王侯貴族・官吏・軍人など生産にかかわらない人間は社会的に不要であるから極力排除すべきであり、むしろ産業人を優する社会を築くべきだとする思想でした。そのキーワードは富の流通と循環です。社会が貧困状態に止まっているのは、カネ、モノ、ヒトの3要素が社会に円滑に流通・循環しないで1ヵ所に停留しているからであり、その3つの要素が流通・循環するようなシステムをつくることが大切だという理論でした。サン=シモン伯爵はその思想が実現する前に亡くなってしまいますが、その意志を受け継いだ後継者たちが、そのような社会改良の方法を提案していきました。それを、渋沢は学んだのです。

このシステムにおいて重要なことの第1は、カネを動かす銀行と株式会社を設立しやすくなるような法律をつくり、政治によってそれをフル回転させることでした。とくに銀行は、富裕層がら預かった資金を国債と外債で通用するようなロスチャイルドの銀行のようなかたちではなく、未来を見据えた産業投資型の銀行が、政府の信用貸与で設立されるのが奨励されることが大事でした。その産業投資型銀行は、同時に小口の預金銀行でもあり、投資のための資金は民間から少額ずつ細流主義によってそれを集める、というものです。具体的には、渋沢が帰国して設立した1873年(明治6)の第一国立銀行(のち第一勧業銀行~みずほ銀行)などです。

第2は、モノとヒトとの流通・循環を加速する鉄道と港湾・船舶の整備でした。それらのインフラ整備には莫大な資金が必要ですから、銀行による間接融資だけでなく、会社の株式や社債による直接金融が必要不可欠です。そこで、これらの証券の流通を促すために証券取引所を設立して整備し、大衆から小口の投資を呼び込む必要があります。具体的には、1878年(明治11)の東京商法会議所(のち東京商工会議所)と東京株式会議所(のち東京証券会議所)の設立がそれに当たります。第一国立銀行も率先してすぐに、その取引所に株式上場をしました。

第3は、優れたアイデアの流通を促すために、万国産業博覧会を開催することです。そしてそれぞれの展示コ-ナーで優秀作に金・銀・銅のメダルを授与し、より良質で・より安く・より大量に、という競争を加速させることでした。

ただしこれらのシステムでは、活性化の持続性の上で、官営ではなくあくまでも民間でなければならず、そこには効果的で集中的な利害調整機能が働くような、専門的知識をもったレギュレイター(調整者)は必要です。レギュレイターが宗教的なカリスマか、それとも理性的な合理主義者かという問題がありましたが、それに対して渋沢栄一は、近世社会で培われてきていた日本的な儒教による徳目とその実践によって、理性的な合理主義者としてのレギュレイターの役目を果たしました。日本的な儒教による徳目とはつまり、自分だけよければいいのではない、みんながよくなる社会にしなければならない、という思想です(鹿島茂「日本の資本主義はどこからきたのか」『情報誌CEL』vol.115' 2017)。

1916年(大正5)に刊行された著書『論語と算盤』に書いているように、渋沢は、商業は武士が言うような卑しいものでは決してない、実業による利益の追求はもちろん正当なものであり、その努力をすることこそが大事である。ただし経済の発展は社会を豊かにすることが目的であり、経済の発展による利益の追求は、単に自分たち個人の豊かのためだけでなく、他人の利益をも、そして社会の公の利益をも目的とするものでなくてはならない、という考え方でした。

それが近代日本の資本主義であったということは、日本の歴史の上では非常に有益であり意義深いことだったといえます。
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近代日本の資本主義の基礎を築いた渋沢栄一岩崎弥太郎三菱財閥創始者)という同じ天保年間生まれのふたりは、まさに対照的な個性を発揮していた人物でした。それは、日本人のふたつの個性を21世紀初頭の現在にも伝えているといってよいでしょう。ただ渋沢栄一が、権力者への追従や対外戦争へ協力するというのではなく、日本のあるべき方向を直視して実力を蓄えながら、江戸時代の身分差別がおかしいという義憤に駆られながら、算盤という現実の経済を大事にしていった生き方に学ぶところが多いのではないかと、いまの日本では考えられます。それは、日本の歴史の中で培われてきた価値感覚と技量とをよく活かした仕事だったと考えられるのです。