じじぃの「年賀状・探検って社会の役に立ちますか?書くことの不純」

【登山】なぜ山に登るのか?山が好き #002/Why climb mountains? Japanese Mountains【PENTAX k3ii/k1】

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=imbI9DyzlUo


『書くことの不純』

角幡唯介/著 中央公論新社 2024年発行

序論 探検って社会の役に立ちますか? より

1 ツイッターをはじめてみた

20年も同じことをつづけていると色々飽きがくる。SNSをはじめたのも、この一連の”飽き”の流れのなかでだった。それまで日常的な雑文はプログに書いていたが、雑誌やウェブでのエッセイ系の連載や書評の仕事が増え、しんどくなってきた。

ブログにかわる身軽な報告と告知の場がほしいという思いと、様々なことに飽きが生じて新しいことをはじめたいと衝動がかさなり、ある日、思い立っとようにツイッター(現 X)のアカウントをつくってみた。

ドキドキしながらはじめてのツイートを入力したことをおぼえている。
<アカウントを作成したが、一体何をつぶやけばいいんだろう>
<ものすごく緊張する>
<未知の世界に踏みだすのが怖い>

どうでもよいひと言をたてつづけに3発打ちこむと、すぐにフォローがつき、その反応の速さに思わず瞠目(どうもく)した。おそろしくささやかな”新活動”ではあるが、それ以降、ダラダラとつづけている。

SNSといってもやっているのはツイッターだけだ。情報収集にはまったく使用しておらず、基本的には日々の雑感、新刊や講演会などの告知、本の感想、あとは山登りや北極探検の簡単な報告等々、要するにほぼ自己喧伝(けんでん)のみである。

最初のころは、気の利いたことをつぶやこうとの気負いもあったが、自分で面白いと思ったツイートほど<いいね>がつかないとの厳しい現実を前に、いつしかそういう気負いもほとんど失せた。
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たしかにこのときは、ある程度の反応はあるかなと多少は思っていたが、でもここまでとは予想外だった。

いったい何をつぶやいたのかというと次のようなことがあった。

夏のある日、私は鎌倉駅前のレンタルスペースで某紙の若い女性記者から取材をうけた。子供のころや若いときの経験がいかに今の自分につながったのかを聞き、それを今の子供たちに伝えて背中を押してあげるという教育面の記事の取材である。生い立ちや昔の思い出、大学探検部時代の活動を訊かれがままに語り、2時間ほどたって、そろそろ取材も余談にシフトしはじめたころだ。その若い記者が急に質問の角度をかえた。

「ところであえて意地悪な訊き方をしますが、角幡さんの探険って社会の役に立ってないんじゃないかっていわれませんか?」

8 関係偏重の社会

誤解されると困るのだが、私はべつに社会の役に立つこと自体を否定しているわけではない。ただ外部からの要請にしたがうのではなく、内部から生みだされるものにしたがって生き方をつくりあげていかないと人生が空しくなるのではないか、自分の生に触れることはできないのではないか、といいたいだけである。
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さて、ここであらためて加藤典洋(著書『日本人の自画像』の本居宣長論の中で、本居宣長は内在を極めすぎて狂気に至り、関係の視点から普遍へと至らなかったという)の内在と関係にたちもどり、つぎの点を考えたいと思う。

加藤は、本居宣長の<もののあはれ>論を高く評価しつつも、最後まで内在の論理で突き進み、関係の視点に転轍する契機を逸したゆえに、太陽は日本で生まれたなどという荒唐無稽の主張をするにいたったと述べている。そして、もし自らの主張を俯瞰(ふかん)にながめ、関係の視点を手に入れていれば、もっと成熟した社会思想を切り拓いていたはずだと嘆く。

しかし本当にそうなのだろうか、と私は思うのである。
むしろ内在を徹底し、太陽は日本は日本で生まれたというぶっ飛んだ説までいったから、本居宣長という人物は歴史に名を残すことになったのではないか。加藤がいうように、どこかで関係の視点にめざめ、成熟した思想家になっていたとしても、学問的には説得力のある仕事ができたかもしれないが、人の心を動かすような迫力や得体のしれなさは持ちえなかったのではないか。

つまりこういうことだ。
内在を突きつめると、かならず意味のある領域をこえて無意味な場所にたどりつくのだが、じつは純粋さというものはそこにしかない。純粋さはときに不気味でうす気味が悪かったりするが、しかし純粋さしかもちえない力というものは絶対にあり、その力が人に感動を与えたり、畏怖させたりする。

だとしたら、究極をめざすなら加藤がいう関係への転轍はむしろ不要ではないか。本居宣長本居宣長だったがゆえに本居宣長になったのではないか。個人的にはこのような問いがわく。

私にとって内在とは行為のことであり、関係とは書くこと、つまり表現である。純粋な行為にとって書くことは不要なのか、否か。本書で考えたいのはこの問題だ。

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じじぃの日記。

角幡唯介著『書くことの不純』という本に、「探検って社会の役に立ちますか?」というのがあった。

「探検って社会の役に立ちますか?」

イギリスの登山家、ジョージ・マロリーは「なぜ、山に登るのか。そこに、山があ. るからだ」と言ったという。

山に登ろうが、海で泳ごうが、私の勝手でしょ。

著者はこの本の「あとがき」にこんなことを書いている。

小さな子供のいる親はだいたい、猫も杓子もその写真を年賀状にのせて送る。かつて子供がいなかったころ、私にはその意図がまったく理解できなかった。
ところが、自分に子供ができた途端、おなじことをやっている自分がいるのだ。

喜んでくれる人たちのために書く。書くとはたったそれだけのことなのだと、最近はようやくそんな当たり前の考えができるようになった。子供のおかげかもしれない。
   
谷本真由美著『世界のニュースを日本人は何も知らない3』に「欧州では専業主婦でいることは恥ずかしい」というのがあった。

「結婚しブログで毎日のように料理や掃除の記事をアップしているような人は、現地の感覚だと単なる無職で社会貢献をしない無能な人となる」

私はこのブログしか、楽しみがないんです。
死んだら、書けなくなるんだぞ! (^^;;

トホホのホ。