色即是空とは何か!/驚嘆すべき人間の本質/ 色とは何か、空とは何か、その関係を明らかにする
仏教 「色即是空、空即是色」
仏教と脳科学の出合い。僧侶・伊藤東凌と考える、利他の心。【中野信子の脳探検】
2021年12月1日 Vogue Japan
仏教の教えには、疲弊しがちな現代の私たちが生きる上で多くのヒントが隠されている。
京都・両足院の副住職である伊藤東凌をゲストに、脳科学と仏教という異なる知見を掛け合わせ、利他的な心の持ち方や瞑想の効果について解く。
https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/brain-xpedition-nobuko-nakano-toryo-ito
PartⅢ 脳の可能性は無限大――「自分が自分だとわかる」不思議 より
意識とは何か?
今この本を読んでいるみなさんには意識があると思います。意識といっても、ただ寝ていない、覚醒しているという意味での意識という意味もあれば、私が私であるとわかる意識もあります。最近では、朝ご飯にしっかり栄養をとったり、社会人セミナーに出たり、将来を見据えて投資や資格の勉強をしたりすることは”意識が高い”などという使い方もされますが、これも要するに、なりたい自分というものを自分でしっかりわかっている、という意味だと考えられます。
このように、今ここにある私という感覚は、当然動物も持ち合わせいる意識であり、知覚と言い換えてもいいのかもしれません。
一方で、自分というものがわかるという意味での意識は、自己意識と呼ばれています。たとえば、ある種の生物は、鏡を見てそれを自分だと認識しているのではないかという報告がありますが、人間の赤ちゃんでも鏡を見てそれがそれが自分だと気づくまでには1歳半以降とそれなりに時間がかかります。
どうして私たちは、自分が自分であるとわかるのでしょうか。昨日の自分と今日の自分は本当に同じ自分なのでしょうか。たとえば、寝ている間に見た目がまったく同じだけど違う体にこっそり入れ替わっていたとしても、私たちは同じ自分だと思うのではないでしょうか。事実、私たちの体は、細胞レベル、物質レベルで日夜入れ替わっており、10年前の私と今の私では、物質的にはまったく別人といって差し支えないといえます。それでも私は、連続した自分というものを信じています。
これまで見てきたとおり、私たちの意識ある脳が入力を受ける際には、無意識の部分でほとんど処理の完了している状態のことが多くあります。しかし、私たちの意識ある脳は、あたかもそれを最初から自分で計画して実行したと解釈してしまう傾向にあります。さまざまな外部からの入力や疑問を、気がつけば次々と処理していってくれる存在があるのです。それを辻褄(つじつま)が合うように解釈するなら、そこには連続した「私」というものが存在するに違いないと思ってしまうのも無理はありません。
じつはこれこそが、自己意識の正体ではないかと考える説もあります。自己意識なるものは、要するに脳が見せる錯覚であるというものです。
私たちの脳が、連続した自己があるに違いない解釈してしまう理由の1つに、エピソード記憶が挙げられます。過去のエピソードを変わらず覚え続けているからこそ同じ自分であると考えられます。
ちなみに今のところ、エピソード記憶を持っている動物はほとんど報告されていないとされており、人間固有のものではないかと考えられています。
自分とは何かを考える
では、自分とは何かについて、ここからは少し哲学的な問いになってしまいますが、一緒に考えてみませんか。
はたして記憶を受け継いでいれば、それは私といえるのでしょうか。
たとえば、将来的には、記憶をそっくりコンピュータにアップロードして、別の体にダウンロードして生き続けるというSFのようなことができるようになるかもしれません。
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クローン技術でまったく見た目も遺伝子の同一の私が作られて、まったく同じ記憶を共有していたとしたら、それは私なのでしょうか。
あるいは、私を分子レベルまで分解してから転送し、転送先で再構成するというSFでよくあるテレポーションの前と後の私は、同じ私なのでしょうか。
いや、そこまでいくとやっぱりそれは違う私なんじゃないかと思えてきます。これは不可解です。まったく同じ体、まったく同じ記憶を持っていても、分岐したその瞬間から違う人になってしまうのはどうしてなのでしょうか。
それは、次の瞬間から起こる経験が違うからに他なりません。そうすると、自分というものは記憶に宿るのではなくて、脳が今この瞬間にしている経験そのものであるといえるのかもしれません。
脳科学という学問は、将来的には、”私とは何か”という疑問に答えることが可能になるのかもしれないとは想像できます。しかし、”なぜ私は私なのか?” ”なぜ私は私でなくてはならなかったのか”という疑問には、絶対に答えることはできないと私は思います。
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どうでもいい、じじぃの日記。
この本の最初の章では、
脳に届くのは信号だけ
みなさんが見ている色や聞いている音は、みなさんの脳が作り出した幻想で、実際は存在しないといったら、「そんなまさか」と思うのでしょうか。
実際、色は電磁波の波長の1つですし、音は空気の振動に過ぎません。それを私たちの目や耳が受け取って、脳に送ることで、脳がそれを解釈した結果、色や音が見えたり聞こえたりするのです。
そしてこの本の最終章では、
事実、私たちの体は、細胞レベル、物質レベルで日夜入れ替わっており、10年前の私と今の私では、物質的にはまったく別人といって差し支えないといえます。それでも私は、連続した自分というものを信じています。
人の体もそうだが、脳も日夜入れ替わっていて、昨日の私と今日の私とでは異なっているのだそうです。
脳科学という学問は、将来的には、”私とは何か”という疑問に答えることが可能になるのかもしれないとは想像できます。しかし、”なぜ私は私なのか?” ”なぜ私は私でなくてはならなかったのか”という疑問には、絶対に答えることはできないと私は思います。
脳は仏教の世界のようなものだそうです。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」