じじぃの「歴史・思想_596_福島香織・台湾に何が・奇跡の日台関係」

台湾で最も高いビル「台北101」に安倍元首相追悼のメッセージ

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EV_VfmnZz20

追悼メッセージを灯した台北101


故安倍元首相への敬愛に包まれた台湾(1)

2022.08.02 ima by kachimai
台湾の観光名所で知られる高層ビルの台北101は、7月9~11日の夜間に故安倍晋三元首相の追悼メッセージが表示されました。
日本人にとってはうれしい「ありがとう(1枚目)」もあれば、上の写真のように安倍元首相への敬意と哀悼の意を示す「敬悼」を使ったものもありました。
http://www.ima-earth.com/contents/entry.php?id=202271823135

『台湾に何が起きているのか』

福島香織/著 PHP新書 2022年発行

第5章 奇跡の日台関係 より

大平外相の「別れの外交」

1972年6月、沖縄返還を成就させた佐藤栄作首相が退陣、世にいう第1次角福戦争に勝ち抜いた田中角栄内閣が組閣され、大平正芳が外相となり、日中国交正常化への動きが加速した。
中華民国では蒋経国が行政院長(首相)となり、いくつかの新しい試みを始めていた。その1つが、台湾人(本省人)の起用を拡大し、行政効率を引き上げることだった。この蒋経国の革新的な政策により、のちに台湾人初の総統・李登輝が登場することになる。さらに経済政策に関しては、国連脱退後の激しい国際環境を渡っていくために経済成長の持続に焦点を置く。外交のない国家とも経済を中心に関係を深めていく実質関係維持の方針が表明されていた。
日本としては中華民国への最大の誠意を示して理解を得ることに全力を挙げるという方針が掲げられ、大平外相の「別れの外交」への展開につながる。
蒋経国は8月3日の行政院院会において、対日外交について、規定の政策に基づいた慎重な対応と、起こりうるすべての状況に対して周到な対策を練るように指示した。この段階では、内部における意見や姿勢の相違があり、対策がまだまとまっていなかったようだ。
8月7日、田中首相訪中の意向が発表されると、蒋経国は「中華民国と人民に対しもっとも友好的でない態度」と強い譴責(けんせき)の談話を発表した。
8月半ばには、日本との断交と戦争状態復活を含む一切の強硬措置を惜しまずとるべきだという主張も政府内で起き、台湾海峡を通過する日本商船に対する臨検や、その安全を保障しないことを宣言するべきだといった感情的な強硬論も現れた。ただ蒋経国と対日政策担当者の間では、強硬論を実際的措置とは見ていなかった。
8月15日に田中首相周恩来首相の訪中要請を受け入れると発表。その翌日、中華民国の彭孟緝駐日大使は厳重な抗議を口頭で行ったが、大平外相は、日中(中華人民共和国)国交正常化は時の流れであり、中華民国との外交が持続しえないことに関しては断腸の思いである、と言い切ったという。これは日華断交の事前通告と受け取られた。

武力統一から和平統一への転換

国連を脱退し、日本と断交し国際社会の孤児になりつつあった台湾は、蒋経国行政院長の主導で国内経済建設に重点を置き、桃園国際空港や高速道路、港湾建設など国家10大建設を打ち出した。
蒋介石時代の大陸反攻を第1の国家目標に置いていた時代は、経済より軍事に重点を置き、インフラ建設も日本統治時代のものを補修して使うなど安上がりを心がけていた。だが1975年4月に蒋介石が没し、中華民国の目標は台湾の国造りへと変わってゆく。この台湾の国家建設資金については、日本と断交していたこともあり、多くが米国からの借款に頼ることになった。
1970年代、米国は中華人民共和国との関係調整に動いており、中華民国・台湾としても、その外交は対米関係に注力されていた。1979年1月1日、米中国交樹立に伴い米華関係は断交となるが、日華断交の経験値を踏まえたこともあって、中華民国は経済を中心に実質的な米台関係の緊密化を進める契機にもなった。
米華相互防衛条約は終了となり、米国の同盟国であった中華民国は、新たに結ばれた台湾関係法によって、米国の世論と利益に基づく保護国の立場となり、それが今に至るまで続いている。
この時代、折しも中華人民共和国毛沢東の死によって文革が終了し、鄧小平の改革開放時代が始まろうとしていた。米中の国交樹立に伴い、鄧小平は「台湾同胞に告げる書」によって、台湾に対して武力統一から和平統一への転換を打ち出した。
国際社会は冷戦の終焉を迎えつつあり、中華民国・台湾が民主主義国家台湾へ変容する環境がいよいよ国内外で少しずつ整い始めてきたのだった。

喧嘩しても切れない絆

2022年9月29日は日中国交正常化50周年であるが、これは日華断交50周年の日でもある。この50年で何を得て何を失ったのか。
2922年7月19日に東京で開催された李登輝友の会主催のシンポジウムで、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が「私たちはあのとき親友を失った。同時に親友を得た」と語っていた。中華民国という親友を失ったが、今の民主主義国家という親友は、この日華断交を含めた日台の複雑な歴史を乗り越えてきたからこそ得られた存在だということだろう。
1972年の日中国交正常化以来、多くの日本人があれほど日中友好をさけび、支持してきた中華人民共和国とは50年たっても親友にはなれておらず、それどころか、今や日本にとって最大の脅威となっていることを比べれば、敗戦の1945年、そして1972年の日華断交と2度にわたって台湾を見捨てた日本が、今なお台湾と親友であり続けられることを奇跡といわずして何といおう。