じじぃの「東京五輪2020・柔道混合団体・決勝・日本列島に衝撃が走る!炎のランナー」

Tokyo 2021 : comment la France est devenue l'autre pays du judo・FRANCE 24

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SNxMk8TCNsg

映画 『Chariots of Fire』

東京五輪2020 新種目の柔道混合団体

日本は無念の銀メダル 難敵フランスに敗れて金メダル逃す

日本は無念の銀メダル 難敵フランスに敗れて金メダル逃す 新種目の柔道混合団体

2021年7月31日 Yahoo!ニュース
日本はフランスに1-4で敗れ、無念の銀メダル。新種目での初代王者を逃した。
【写真】激し過ぎる明暗 万歳するフランスとガックリうなだれる日本
階級別の選手との対戦も行われる団体戦。初戦のドイツ戦ではまさかの2連敗で肝を冷やしたが、怒濤(どとう)の4連勝で逆転勝ち。準決勝はROCを圧倒し、第1試合からの4連勝で決勝にコマを進めていた。
決勝前には控え室で円陣を組み、気合いを入れた日本。最大のライバルとみられていたフランスとの対戦に敗れ、頂点には届かなかった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/79938cc92e89ecc5e6497acee6c2d1e77938c0e1

『映画になった奇跡の実話 これが美談の真相だ』

鉄人ノンフィクション編集部 鉄人文庫 2021年発行

1924年パリ五輪の英国人金メダリスト、エイブラハムスとリデルの劇中では描かれないその後

海辺を走るランナーのバックにかかる流麗なメロディ。2012年ロンドン五輪の開会式&表彰式であの有名なオープニング曲が使われ、久々に脚光を浴びた1981年公開の映画「炎のランナー」。本作は、1924年パリ五輪の陸上競技で金メダルを獲得した2人のイギリス人ランナー、ハロルド・エイブラハムスとエリック・リデルの実話を題材とした人間ドラマだが、2人がその後歩んだ人生は大きく異なる。
主人公の1人、エイブラハムスは1899年、ロシア・ポーランドユダヤ人移民の子供として貧しい家庭に生まれた。ユダヤ人の血を引いていることから潜在的な差別と偏見を受けていたが、若い頃より短距離走と幅跳びに非凡な才能を見せ、学業優秀で名門ケンブリッジ大学進学後もアスリートとして活躍していた。
劇中では描かれないが、彼が初めてオリンピックに参加したのは1920年、ベルギーのアントワープ五輪である。この大会で100メートル、200メートルともに準々決勝敗退。走り幅跳びは20位と惨敗し、4年後のパリ五輪でもメダルを期待できる選手とは思われていなかった。
しかし、映画のとおり非英国系のプロコーチから本格的な指導を受けた結果、100メートルで並み居る強豪を押しのけ見事に金メダルを獲得。200メートルは6位に終わったものの、第1走者として出場した4x100メートルリレーで銀メダルを手にした。
もう1人の主役、リデルはスコットランド人の宣教師の息子として1902年、中国の天津で誕生。6歳で母国に戻り、エジンバラ大学進学後に陸上選手としての才能を開花させる。
パリ五輪ではエイブラハムスと同様、100メートルに出場する予定だったが、その予選日が日曜(キリスト教の「安息日」)だったことから、敬虔なクリスチャンである彼は出場を断固拒否。代わって出た400メートル走で優勝大本名のホレーショ・フィッチ(アメリカ)ら強豪を下し、47.6秒の世界記録で金メダルを獲得。さらに200メートルでも胴に輝いた。
映画ではこの交代劇を巡り脚色が施されている。劇中、リデルはパリに到着後、100メートルの出場を拒否。本来400メートルに出場する予定だった選手が「自分はすでに110メートルで銀メダルを獲得しているので、その枠を彼に譲る」と申し出たことで、急遽リデルの出場が決まる。が、100メートルの予選日は五輪開催の数ヵ月前からわかっており、実際のリデルは短期間ながら400メートルのトレーニングに励んでいた。さらには、パリ五輪の110メートルハードルでイギリス人選手がメダルを獲得した事実もない。映画のように紳士的な申し出をしたのは架空の人物である。
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パリ五輪で世紀の番狂わせをやってのけたエイブラハムスとリデルは本大会を最後に選手生活を終了。その後の2人の人生について、映画では詳しく触れられていない。
エイブラハムスはパリ五輪の翌年のケガで現役を引退後、40年にわたってスポーツジャーナリスト、BBCラジオのスポーツ解説者として活躍したほか、ユダヤ人運動協会の会長、アマチュア運動協会の会長に就任。その功績から大英帝国勲章を授与されている。
私生活では1936年、オペラ歌手のシビル・エバーズと結婚したものの子供に恵まれなかったため、1942年に生後8週の男の赤ん坊アラン、1946年に3歳の幼女スーを養子に迎えている。死亡したのは1978年1月。1963年にこの世を去った妻シビルと同じ墓に埋葬された(享年78)。
一方、リデルはパリ五輪の翌年に大学を卒業すると、父親と同じ宣教師として中国に渡る。1931年、満州事変が勃発。中国は外国人にとって極めて危険な場所となったが、彼はそのまま中国にとどまる。第二次世界大戦が始まり1941年、イギリス本国から待避勧告が出た後は、妻と3人の娘を出国させ、本人は中国に残留した。
1943年、日本軍に抑留され収容所へ。このとき、イギリスと日本の間で捕虜交換の話が出て、イギリス側はパリ五輪の英雄を救い出そうと画策するも、リデルは自分の代わりに妊娠中の女性を帰国させるよう申し出たという。
彼が脳腫瘍により43歳の若さで世を去ったのは、終戦半年前の1945年2月。仲間の宣教師によれば、最期の言葉は「完全に降伏した」だったという。

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