パンパース CM アスリート編 | 湿度を調節、ムレゼロへ挑戦
紙おむつの内部
紙おむつのしくみ
ユニ・チャーム
●紙おむつってどうなっているの?
みなさんは初めて紙おむつを手にしたときどう感じましたか?
「こんなに薄くて大丈夫?」と思ったかもしれませんね。
タオルくらいの薄さなのに、どうしてあんなに数回分のおしっこを吸収できちゃうんでしょう?それはもちろん、おむつの中に、おしっこをたくさん吸収して逃さない、さまざまな技術が隠されているから。
でも、紙おむつを開いてみたことがある人は少ないかもしれませんね。
意外に複雑な「紙おむつ」のしくみを一緒に見ていきましょう!
https://jp.moony.com/ja/diapers/Important-shikumi.html
ダイヤモンド社 絶対に面白い化学入門 世界史は化学でできている 左巻健男(著)
【目次】
1 すべての物質は何からできているのか?
2 デモクリトスもアインシュタインも原子を見つめた
3 万物をつくる元素と周期表
4 火の発見とエネルギー革命
5 世界でもっともおそろしい化学物質
6 カレーライスから見る食物の歴史
7 歴史を変えたビール、ワイン、蒸留酒
8 土器から「セラミックス」へ
9 都市の風景はガラスで一変する
10 金属が生み出した鉄器文明
11 金・銀への欲望が世界をグローバル化した
12 美しく染めよ
13 医学の革命と合成染料
14 麻薬・覚醒剤・タバコ
15 石油に浮かぶ文明
16 夢の物質の暗転
17 人類は火の薬を求める
18 化学兵器と核兵器
https://www.diamond.co.jp/book/9784478112724.html
15 石油に浮かぶ文明 より
合成繊維の登場
1938年、「石炭、水、空気のようなどこにでもある原材料からつくられ、鋼鉄のように強く、クモの糸のように優美で、どの天然繊維より弾性があり、美しい光沢を持つ繊維」という名文句とともに、初の合成繊維であるナイロンが発表された。丈夫で軽く、弾力性があり、絹に似た感触があり、さらに、耐摩耗性や耐薬品性に優れており、吸湿性が小さいので、洗ってもすぐ乾く。
ナイロンの名はノーラン(走らない→伝線しない)をもじってつけられたという説が有力だ。ナイロンは伝線しにくい女性用ストッキングとして有名になった。それまでの日本産の絹製の靴下に代わる丈夫なストッキングは、たちまち人気商品となった。ちなみに、現在もアメリカの女性はストッキングのことをナイロンと呼ぶ。
ナイロンの発見者は、アメリカのデュポン社という化学メーカーのウォーレス・カロザース(1896~1937)だ。デュポン社は、アメリカの化学工業の遅れを取り戻すために基礎研究を重視し、そのための優秀な若手化学者を集めた(基礎研究とは、製品にはすぐ結びつかない研究で、真理の探究そのものを目的とする)。その一人がカロザースだ。ハーバード大学の有機化学講師だった彼は、1928年、32歳の若さでデュポン社の有機化学研究所長に迎えられた。
カロザースは基礎研究として、できるだけ大きな分子(高分子)をつくりたかった。そのために研究班を動員して、「低分子で多数が結びつき(重合して)高分子になりそうなもの」を手当たり次第に重合した。
1930年、カロザースの共同研究者ジュリアン・ヒルがポリエステルを合成する。これは綿に劣らぬ強さを持っていたが、耐熱性や耐水性が弱く実用化には至らなかった。なお、ポリエステルは種類が多く、現在のポリエステルは優れた性質を持っている。
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カロザースのグループは、以後、何百もの薬品の組み合わせを手当たり死骸に試みる。彼らの大ローラー作戦の結果、ヘキサメチレンジアミンとアジピン酸から合成した「ナイロン(ナイロン6.6)」が生まれる。
ナイロンの工業生産へ向けて、デュポン社の総力を結集して開発研究が進められた。1939年にナイロン工業が大量生産を始めるまでの苦心は、発見に劣らぬものだった。難関の1つは、重合度が高い分子(高分子)の合成だ。重合度が低いと、繊維としての強度が満足なものとならないのだ。
なお、ナイロンの発明者カロザースは、デュポン社がナイロンを発表する以前の1937年に青酸カリを服毒し、謎の自殺を遂げる。41歳の誕生日の2日後のことである。彼は学生時代からうつ病に悩まされており、死の数年前から「自分は失敗者である」いう考えに取り憑かれていたという。
ナイロンにはさまざまな種類があり、現在多く生産されているのがナイロン6.6とナイロン6である。日本ではおもにナイロン6が生産されている。
日本は古くから養蚕をしていたが、明治になると高等蚕糸学校などの専門学校をつくり技術の発展に努めた。その結果、日本は世界の養蚕の過半を占める蚕糸王国になり、世界有数の絹の輸出国となった。
ナイロンが発売された当時、日本生糸の輸出先は大部分がアメリカだった。もしナイロンによって日本の生糸がアメリカから締め出された場合、日本の何十万という繊維業者はもちろん、カイコを飼って暮らしてきた200万の農家にとって大事件である。実際、日本はナイロンの登場、とくにストッキングがナイロン製に代わったことなどによって大きな打撃を受けた。日本の生糸産業への影響は「ナイロンの衝撃」ともいわれる。
日本が開発した合成繊維ビニロン
京都大学の桜田一郎教授(1904~1986)らのグループは、1937年頃から合成繊維の研究を始めていたが、デュポン社がナイロンを発表したことに衝撃を受けた。桜田教授は入手した長さ3センチメートル、重さ0.3ミリグラムのナイロンを分析し、その性能と成分を知り、日本独自の合成繊維の開発を目指した。
選んだのは分子中に多くのヒドロキシ基(OH基)を持ったポリビニルアルコール(PVA)だった。PVA繊維はすでにドイツで発見されていた。しかし、水溶性のために衣類には使えない。桜田らは、水に溶けない工夫をした。親和性のOH基をホルマリン(HCHO)と反応させて、OH基をブロックして「合成1号」(後に「合成1号A」に改称)を開発した。
1939年に発表されると新聞は「日本のナイロン現る」と書き立てたが、熱水中では縮んでしまうという欠点があった。これを改良して熱にも水にも強い「合成1号B」を1940年に発表する。その後も改良を重ねて、1948年には「ビニロン」と命名された。日本における合成繊維の第1号だ。
4大プラスチックとは?
ベークライト(フェノール樹脂は合成樹脂のなかでも、もっとも古い歴史をもち、1872年ドイツのバイヤー氏によって発明され、アメリカのベークランド氏によって実用化された樹脂で、わが国でもベークライトの名称で、電気機器・食器などに古くから利用されている)をきっかけに新しいプラスチックが盛んに研究されるようになった。
現在、生産量が多い順に、ポリエチレン、ポリプロピレン、ポリ塩化ビニル、ポリスチレンとなり、「4大プラスチック」と呼ばれている。
4大プラスチックのほか、ユリア樹脂、フェノール樹脂、ポリウレタン、アルキド樹脂、メラミン樹脂、フッ素樹脂などさまざまな種類のプラスチックが生産され、さまざまな用途に使われている。これらの原料の多くは、天然ガスや原油を分留して得たナフサ(粗製ガソリン)中の炭化水素だ。そこで、天然ガスが豊富なアメリカでは、石油会社がプラスチックス工業と協力して新製品の探究と製造にあたった。
プラスチックは、第二次世界大戦中、航空機・電波兵器の材料・ゴムなどの代用品として急速に発展し、戦後は私たちの生活必需品となっていった。
紙おむつの白い粉
1960年代には、アメリカで鉄の代替材料としてポリイミド樹脂などが使われるようになった。機械装置などの分野で、金属などの代替材料として使われるプラスチックを「エンジニアリング・プラスチック(エンプラ)」という。その後、高い強度、耐熱性、耐摩擦性といった機能性に優れたさまざまなエンジニアリング・プラスチックが開発された。
比較的厳しい環境でも使われるので、機械部品や電気部品などの信頼性が求められる用途で活躍する。特にポリカーボネート、ポリアミド、ポリアセタール、変形ポリフェニレンエーテル、ポリブチレンテレフタレートの5つを指して5大エンプラと呼ばれている。
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これらの機能性プラスチックは、電気的性質・力学的性質・光学的性質・生体適合性・生分解性・選択的透過・吸水性など、さまざまな機能を考えて分子設計されている。