じじぃの「女子挺身隊・黒澤明監督・映画『一番美しく』!この国で戦争があった」

黒澤明入門 出会い~「一番美しく」

動画 YouTube
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一番美しく (The Most Beautiful) Trailer

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GfDwlKMyboE

『この国で戦争があった』

PHP研究所/編 PHP研究所 2000年発行

映画『一番美しく』のこと 【執筆者】黒澤明 より

「一番美しく」は、それ(ゼロ戦)に替る企画として、取り上げられたもので、勤労動員の女子挺身隊の話である。
それは、平塚の日本光学の工場を舞台にしたもので、そこで生産されていた軍事用のレンズを作る仕事に従事していた少女達の物語である。
私は、それを映画にするにあたって、セミ・ドキュメンタリーの形式をとる事にした。
工場を借りて、そこを舞台にお芝居を撮るのではなく、その工場で実際に働いている少女の集団をドキュメントのように撮ってみたい、と考えたのである。
私は、そのために、先ず、若い女優達にしみついている俳優の体臭のようなものを除去する仕事から始めた。
その脂粉の匂い、気取り、芝居機、俳優特有の自意識を取り去って、本来のただの少女に戻してしまおうと、と思ったのである。
だから、駆足の訓練からはじめ、バレー・ボールをやらせ、鼓笛隊を組織し練習させ、その鼓笛隊に街の中を行進させた。
女優達は、駆足やバレー・ボールは、それほどの抵抗もなくやったが、衆目を集める鼓笛隊の行進は、羞恥心が働いて、大分抵抗を感じたようだ。
しかし、それも回を重ねるごとに平気になり、顔の化粧も無造作になり、一見、よく見掛ける、健康で活発な少女の集団のようになった。
そこで、私は、その集団を日本光学の寮に入れ、数名ずつ各職場へ配分し、工員同様の日課で労働をやらせた。
今考えると、ずいぶんひどい監督である。
みんな、黙ってよくついて来てくれた、と思う。でも、当時の戦時下の風潮の中では、それは、ごく自然に受け入れられたのである。
また、私も別に滅私奉公を意識して、そんな事をやったのではなく、滅私奉公をテーマにしたこの作品は、こうでもしなければ、全くリアリティのない紙芝居になってしまうと考えてやっただけである。
工場の寮の寮母は、入江(たか子)にやってもらったが、入江さんは、その持前の抱擁力で、若い女優達の人気の的になり、私の仕事を助けてくれた。
女優達を工場の寮に入れると同時に、私達撮影スタッフも工場の寮に入った。
その私達の寮の朝は、遠くから聞えて来る鼓笛隊の音で明けた。
その音を聞くと、私もスタッフも寝床を飛び出し、あわてて服を着て、平塚の踏切りまで走る。
霜で真白な道を、鉢巻をしめた鼓笛隊が、単純だがいさましい曲を演奏しながら行進して来る。
みんな、笛を吹き太鼓を叩きながら、私達スタッフを、横眼で睨んで通り過ぎ、踏切りを越え、日本光学工場の門を入っていく。
私達は、それを見送ると寮へ帰り、朝食を済まして、それから、工場へ撮影に行くのである。それは、全く、記録映画を撮るのと同じやり方と心構えの仕事であった。
各職場で働いている女優達も、脚本に指定された芝居はするが、キャメラを意識するよりも、現に自分が従事している仕事、その工作機械の操作に追われていた。そして、その眼付きや動作には、芝居をしているという自意識はほとんどなく、働いている者の生々しい躍動感と不思議な美しさがあった。
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正当なところ、私の課した仕事の苛烈さも、彼女達に女優という仕事を捨てさせた、1つの要因だった、と考えるべきだろう。
しかし、この女優の集団は、実によく頑張ってくれた。
それは、まさに女優挺身隊であった。
「一番美しく」という作品は、小品ではあるが、わたしの一番かわいい作品である。

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どうでもいい、じじぃの日記。
『この国で戦争があった』は、終戦(昭和20年)当時18~22歳頃であった作家や演劇関係者の証言をまとめたような本になっている。
私は昭和21年生まれで、私から見れば一周り半ぐらい上の人達だ。
この人達の青春は、生と死が重なっているような時代であった。
それでも、【執筆者】黒澤明の「映画『一番美しく』のこと」は読んでいて、違和感がなく読めた。
芸術は、時代を超越したもののように思える。
映画『一番美しく』は黒澤明が34歳の時の作品である。