Turkey's secular political system at crossroads
Turkey’s Parliament Votes to Lift Head Scarf Ban
Turkey’s Parliament Votes to Lift Head Scarf Ban
Tens of thousands of secular Turks demonstrated in Ankara against the lifting of a decades-old ban on Islamic head scarves at Turkey’s universities.Credit.
https://www.nytimes.com/2008/02/09/world/europe/09cnd-turkey.html
『21 Lessons』
ユヴァル・ノア・ハラリ/著 柴田裕之/訳 2019年発行
14 世俗主義――自らの陰の面を認めよ より
世俗主義的であるとはどういうことか? 世俗主義はときおり、宗教の否定と定義され、したがって、世俗主義的な人々は、何を信じておらず、何をしないかによって特徴づけられることがある。この定義によれば、世俗主義的な人々はどんな神も天使も信じておらず、教会や神殿の類には行かず、儀式を行なわないという。そのように特徴づければ、世俗主義的な世界は空疎で、虚無的で、道徳とは無関係で、何か満たされるのを待っている空箱のように見える。
そのような否定的なアイデンティティを採用したがる人は、まずいない。世俗主義者をもって任じる人は、世俗主義をまったく異なるふうに見ている。彼らにとって世俗主義は、とても肯定的で積極的な世界観であり、何かしらの宗教への反対ではなく、首尾一貫した価値基準によって定義される。じつは、世俗主義的な価値観の多くは、さまざまな宗教伝統も共有している。あらゆる叡智と善を独占していると言い張る一部の宗派とは違い、世俗主義的な人々は、そのような独占を主張しないのが大きな特徴の1つだ。彼らは、道徳と叡智がある特定の場所に特定のときに天から降りてきたとは考えない。彼らにしてみれば、道徳と叡智は、全人類が自然に受け継いできたものなのだ。したがって、少なくともいくつかの価値観は世界中の人間社会に現れ、イスラム教徒やキリスト教徒、ヒンドゥー教徒、無神論者の全員が共有していることが、当然見込まれる。
宗教指導者は信徒に厳然とした二者択一の選択肢を提示することが多い。たとえば、あなたはイスラム教徒であるか、イスラム教徒ではないかのどちらかであり、もしイスラム教徒なら、他の教義はすべて退けるべきだ、ということになる。それに対して世俗主義の人は、複数の混成のアイデンティティを平気で受け容れる。世俗主義の観点に立てば、あなたは自分をイスラム教徒と呼び、アッラーに祈り、戒律に従った食事を摂り、メッカに巡礼に行くことを行くことを続けてなお、世俗主義的な社会の善良な成員でありうる。
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世俗主義は、スターリンの教条主義や、西洋の帝国主義と止めどもなく進む工業化の苦い果実と同一視するべきではない。とはいえ、それらの責任をすべて免れることもできない。世俗主義の運動と科学の機関は、人類を完全なものにし、地球の恵みを私たちの種の利益のために役立てることを約束して何十億もの人を魅了してきた。そのような約束は、疫病と飢饉の克服だけではなく、強制労働収容所の創設や氷冠の融解にもつながった。これはすべて、人々が世俗主義の核心をなす理想と科学にまつわる真の事実を誤解したり歪めたりしたせいだとする向きもあるだろう。それはまったく正しい。だがそれは、影響力を持った運動のすべてに共通する問題だ。
たとえばキリスト教には、異端審問や十字軍の派遣、世界中の先住民文化の迫害、女性の力の剥奪といった大きな罪の責任がある。そういわれると、キリスト教徒は腹を立て、こうした罪はみな、キリスト教を完全に誤解したためになされたと反論するかもしれない。イエス・キリストは愛しか説いておらず、異端審問はこの教えの恐ろしい歪曲に基づいていた、と。この主張には共感しうるが、そう簡単にキリスト教を無罪放免にしたら誤りになる。異端審問や十字軍の派遣にぞっとしたキリスト教は、これらの残虐行為とあっさり縁を切るわけにはいかない。そうする代わりに、とても難しい疑問を自らに投げかけるべきだ。いったいぜんたい、どうして「愛の宗教」は自らがそんなふうに歪曲されるのを許したのか? それも、一度だけではなく、何度も。すべてをカトリックの狂信的行為のせいにしようとするプロテスタントは、アイルランドや北アメリカでプロテスタントの入植者がどんな振る舞いをしたかが書かれた本を読むといい。同様に、マルクス主義者は、マルクスの教えのどんなところが、強制労働収容所への道を拓いたのか自問するべきだし、科学者は科学的事業がグローバルな生態系を不安定にさせる行為に、どうしてこれほど簡単に荷担してしまったかを考えるべきだし、とくに遺伝学者は、ナチスに進化論の諸説を乗っ取られてしまったことを戒めとするべきだ。
どの宗教やイデオロギーや信条にも陰の面があり、どの信条に従おうと、自分の陰の面を認め、道を誤るようなことは「私たちには起こるはずがない」などという甘い考えを抱いて安心するのは避けるべきだ。世俗主義の科学には、大半の伝統的宗教よりもずっと有利な点が少なくとも1つある。すなわち、自分の陰の面に恐れをなしておらず、進んで自分の誤りや盲点を認める建前になっていることだ。もしあなたが、超越的な力によって明かされる絶対的な真実を信じていたら、どんな誤りを認めることも自分に許せない。認めたら、自分が信じている物語全体が無効になってしまうからだ。だが、誤りを犯しがちな人間による真実の探求の価値を信じているなら、失敗を認めることも、自ずとその探求の一端とする。