じじぃの「歴史・思想_220_シンギュラリティ・それでもまだ人間なのか」

Singularity:who am I ?

楽天ブックス:シンギュラリティは近い 人類が生命を超越するとき

レイ・カーツワイル(著)
【目次】
第1章 六つのエポック
第2章 テクノロジー進化の理論ー収穫加速の法則
第3章 人間の脳のコンピューティング脳力を実現する
第4章 人間の知脳のソフトウェアを実現するー人間の脳のリバースエンジニアリング
第5章 衝撃……
第6章 わたしは技術的特異点論者(シンギュラリタリアン)だ
https://books.rakuten.co.jp/rb/14117597/

『シンギュラリティは近い[エッセンス版] 』

レイ・カーツワイル/著 NHK出版/編 2016年発行

わたしは技術的特異点論者(シンギュラリタリアン)だ より

それでもまだ人間なのか?

論者の中には、シンギュラリティのあとに来る時代を「脱人間(ポストヒューマン)」と呼び、脱人間主義の時代になると予想している人もいる。しかし、わたしにとって人間であることは、その限界をたえず拡張しようとする文明の一部であることを意味する。人類は、その生体を再生し補強する手段を急速に増やしことにより、すでに生物的な限界を超えつつある。技術によって改良された人間はもはや人間でないとするなら、その境界線はどこに引けばよいのだろう? 人工心臓をつけた人は、まだ人間だろうか? 神経を移植された人間はまだ人間だろうか? それが2ヵ所になったらどうだろう? では、脳に10個のナノボットを挿入した人はどうだろう? 5億個ではどうか? 境界はナノボット6億5000万個にすべきだろうか? 6億5000万個より下ならまだ人間で、それを超えれば「ポストヒューマン」というように。
確かに人類とテクノロジーの融合は、破滅に至る先道を転げ落ちる危険性をはらんでいるものの、それはより輝かしい前途へとなめらかに上昇していく道であり、ニーチェの言う深い淵へ滑り落ちるものではない。中には、この融合を指して、新たな「種」の創造だという人もいる。しかし、そもそも種とは生物学の概念であり、われわれがしようとしているのは、生物学を超越することなのだ。シンギュラリティの根底にある転換は、生物進化の歩みを一歩進めるだけのものではない。われわれは生物進化の一切をひっくり返そうとしているのだ。

意識をめぐる厄介な問題

未来の機械は、感情や精神を宿すことができるのだろうか? これまでの章で、今日の生物としての人間が示している感情豊かな行動のすべてを、いずれ非生物的な知脳が示すようになるというシナリオを、いくつも検討してきた。第1のシナリオは、2020年代の末までに、人間の脳のリバースエンジニアリングが完了し、感情的知脳も含めた、人間の複雑で捉えがたい脳に匹敵しあるいは凌駕する。非生物的なシステムが創造されるだろうというものだ。
第2のシナリオは、人間の脳のさまざまなパターンを、適切な非生物的な思考の基板にアップロードするというもの。そして第3の、もっとも説得力のあるシナリオは、人間そのものが徐々に、しかし確実に、生体から非生物的な存在へと変わっていくというものだ。障害や病気を改善するための神経移植のような、比較的簡単なデバイスの導入はすでに始まっている。こうした人体の改造は、血流にナノボットを入れるようになれば、いっそう進歩するだろう。ナノボットはまず医療と老化防止を目的として開発が進められる。
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意識の問題は、客観的測定や分析(つまり科学)によって完全に解決することはできない。だからこそ、哲学の果たす役割が重要となる。意識は、存在論上のもっとも重要な問題である。結局のところ、主観的経験がまったくない世界(やたらに物体が渦巻く中、それを経験する意識ある存在がない)を実際に創造してみると、そんなものは存在しないも同然だ。一部の哲学的流れ――東洋(仏教思想のある宗派など)、西洋(量子力学における観測者本位の解釈など)の双方――では、まさしく世界はそのように見られている。

わたしは誰? わたしはなに?

意識と関連がありながら、また別の問題となるのが、われわれのアイデンティティである。個人の精神のパターン――知識や技術、人格、記憶など――を、他の基板にアップロードできる可能性については前に述べた。その結果生まれた新しい存在は、わたしそのもののように振る舞うだろうが、そこに問題が生じる。それは本当にわたしなのだろうか?
画期的な寿命延長のためのシナリオのいくつかは、われわれの身体と脳を構成するシステムやサブシステムの再設計と再構築を必要とする。この再構築を行なうと、わたしはその過程で自己を失うのだろうか? この問題もまた、今後十年の間に、時代がかった哲学的対話から、差し迫った現実的課題へと変貌していくだろう。
では、わたしとは誰なのか? たえず変化しているのだから、それはただのパターンにすぎないのだろうか? そのパターンを誰かにコピーされてしまったらどうなるのだろう? わたしはオリジナルのほうなのか、コピーのほうなのか、それとも両方なのだろうか? おそらく、わたしとは、現にここにある物体なのではないか。すなわち、この身体と脳とを形づくっている、整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか。
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このことは、人体冷凍術に関しても実際的な問題となる(人体冷凍術とは、死亡直後の人体を冷凍保存し、死因となった状況や疫病を克服できる技術と、冷凍保存および死の初期段階に受けたダメージを回復できる技術が揃った未来に生き返らせようというもの)。「保存されていた」人がついに生き返ったとしても、提案されている方法によれば、その生き返った人間は、まったく新しい物質と、同じ神経パターンのまったく新しいシステムで本質的に「再構築」されることが示唆されている。そのため、蘇生した人間は事実上、レイ2号(すなわち別人)となるだろう。
さて、この思考の流れをもう少し迫ってみよう。そうすればジレンマがどこから来るかがわかる。わたしをコピーし、オリジナルのわたしを破壊したとすると、それはわたしの死を意味する。先の結論のように、コピーはわたしではないからだ。コピーはきっとみごとにわたしになりすましだろうから、誰も違いに気づかないかもしれない。それでもなお、わたしが死んだことに変わりはないのだ。
わたしの脳のごく小さな部分を、同じ神経パターンをもつ物質と置き換えることを考えてみよう。
そう、わたしは依然としてここにいる。手術は成功したのだ(ちなみに、ナノボットなら、外科的処置を行なわずにそれをやりとげられる)。すでにこのような人は存在する。たとえば、内耳の蝸牛(かぎゅう)管の移植を受けた人や、パーキンソン病の症状を抑えるために神経移植を受けた人などだ。さて、つぎにわたしの脳の別の部分を置き換えよう。それでももとのわたしのまま……そしてさらにまた移植を……。一連の移植のあとも、わたしは依然としてわたしだ。「古いレイ」も「新しいレイ」も存在しない。わたしはもとのわたしのままだ。わたしがいなくなったと悲しむ者は、わたしを含め、誰もいない。
徐々に身体を置き換えていっても、レイはもとのままで、意識もアイデンティティもそのまま維持されているようだ。徐々に身体が置き換った場合、古いわたしと新しいわたしが同時に存在することはない。しかし、すべてのプロセスが終ったとき、そこにあるのは新しいわたしに相当する存在(すなわちレイ2号)で、古いわたし(レイ1号)はもはやいない。したがって、緩やかな置き換えもまた、わたしの死を意味する。ここで疑問がわき起こるかもしれない。いったいどの時点で、わたしの身体と脳は、別の誰かになってしまったのだろう、と。