Apollo 13 | "Houston, We Have a Problem"
アポロ13号 着陸船
〈いのち〉とがん
岩波書店 著者 坂井律子
“絶体絶命”の状況を人はいかに生き得るのか.
突然の膵臓がん宣告,生きるための治療選択,届かぬ患者の声,死の恐怖.
患者となって初めて実感した〈いのち〉の問題を,赤裸々に真摯に哲学した「がん時代」,未来への提言.
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『〈いのち〉とがん 患者となって考えたこと』
坂井律子/著 岩波新書 2019年発行
治療――突然がん患者になった私 より
入院から手術まで2週間。毎日なんらかの検査と、その結果説明がある。ドクターだけでなく、病棟看護師、薬剤師、栄養士、そして手術に向かって、手術看護師、麻酔科医とさまざまな人たちが病室を訪れた。このなかで、私の担当となった看護師からの「術後についてのレクチャー」に。私たち夫婦は震え上がった。
まず、示されたのが「術後、こんな感じでICUから帰ってきます」という説明用のイラストだった。そこには、包帯でまかれ、管を何本も体から出した患者の姿が描かれているのだがどう見ても、「瀕死のミイラ」にしかみえない。
とにかく、私が受ける手術は「消化器分野でもっともむずかしく、患者負担が大きいものの1つ」である「膵頭十二指腸切除」なのである。
学ぶ――患者としての好奇心 より
アメリカ映画『アポロ13』は1995年に制作され日本でもヒットしたスペクトル映画である。主演・トム・ハンクス、助演エド・ハリス。NASAのアポロ計画最大のドラマと言われるアポロ13遭難と奇跡の生還を、実話に基づいて描いている。
初めてこの映画を見たのは劇場封切だったのか、レンタルビデオだったのか、記憶は定かではないが、この映画には大好きなシーンがあり、よくおぼえていた。それは、遭難の瞬間でも、生還の瞬間でもなく、生還に至るまでのディティルの1つである。
遭難したアポロ13は、月面着陸の使命を捨て地球に生きて帰ることを最大の使命として飛行を続ける。しかし爆発事故のため司令船を乗り捨て、小さな月着陸船に乗り換えることになった。定員2人の月着陸船の空気清浄機は機能不足で3人の二酸化炭素排気を賄えず、クルーたちは生命の危機に瀕する。
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『アポロ13』を私は手術後に2回見た。1回目は下痢と痛みに苛まれていた入院中の病室で、生還する元気がほしい、というより痛みを忘れる時間を求めて見た。2度目は、先のようなこと(膵がんに効く薬はないと言われたこと)を考えるようになってから再度見た。
13号にいよいよ、最後にして最大の難関、大気圏突入の時がやってくる。管制センターでは、「遮熱板にひびがあり熱に耐えられない」「パラシュートが凍って開かない」「台風が来ている」などありとあらゆるネガティブ情報が飛び交い、史上最大の惨事、NASA最悪の汚点を危惧する空気が部屋を支配し始める。しかし、管制官エド・ハリスは言う。
「私は、史上最大の快挙になると思っている」
一方、船長のトム・ハンクスには、これまで彼が経験してきた九死に一生の経験とそこからの生還を反芻するシーンが挿入されている。
「海上で進路を見失い、不時着を覚悟したときに、暗闇に大型船の航路が光って見えた。それは暗闇だったからこそ見えた光だった」
私は、集学的治療において主治医は、数々の情報を捌(さば)き、取捨選択をし、決してあきらめない管制官なのだと思う。そして患者のほうも、治療で何が行なわれようとしているのか、患者にできることは何か、暗闇でなお目を凝らす努力が必要なのだと思う。だがそうはいっても患者にできることはあまりない。治療が滞らないようよう体重を減らさない、とか、よく眠るとかしか私には思いつかなかった。
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どうでもいい、じじぃの日記。
『〈いのち〉とがん』の著者は、2016年5月にすい臓がんの診断を受けた。
最初 胃の痛みに「逆流性食道炎」と診断された。その後のエコー検査で黄疸がわかった。
すい臓はちょうど胃の後ろにある長さ20cmほどの薄っぺらな臓器で、十二指腸の内側に接して連続しており、左の端は脾臓につらなっている。
「『アポロ13』を私は手術後に2回見た。1回目は下痢と痛みに苛まれていた入院中の病室で、生還する元気がほしい、というより痛みを忘れる時間を求めて見た。2度目は、先のようなこと(膵がんに効く薬はないと言われたこと)を考えるようになってから再度見た」
そしてこんなことが書かれていた。
「診察室に入ると、パソコンの画面が赤く光っているのが見えた。がん患者なら皆知っている、最も見たくないPETの赤い光であった」
すい臓がんの5年生存率は9%なのだそうだ。
著者は、2018年11月に58歳で亡くなった。