Cardano Girolamo
Gerolamo Cardano
三次方程式の解の公式
カルダノの公式と呼ばれる三次方程式の解の公式が発見されるまでの歴史は大変興味深いものですので,少しここで紹介したいと思います.
二次方程式の解(虚数解を除く)を求める公式は,古代バビロニアにおいて,既に数千年前から知られていました.その後,三次方程式の解の公式を探す試みは,幾多の数学者によって試みられたにも関わらず,16世紀中頃まで成功しませんでした.式(1)の形の三次方程式の解の公式を最初に見つけたのは,スキピオーネ・フェロ( Scipione del Ferro (1465-1526) )だったと言われています.しかし,フェロの解法は現在伝わっていません.当時,一定期間内により多くの問題を解決した者を勝者とするルールに基づき,数学者同士が難問を出し合う一種の試合が流行しており,数学者は見つけた事実をすぐに発表せず,次の試合に備えて多くの問題を予め解いて,秘密にしておくのが普通だったのです.フェロも,解法を秘密にしているうちに死んでしまったのだと考えられます.
http://hooktail.sub.jp/algebra/CubicEquation/
『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』
イアン・スチュアート/著、水谷淳/訳 ダイヤモンド社 2019年発行
自堕落な生活で財産を失う
カルダーノは私生児として生まれた。父親のファジオはパヴィア在住、数学の才能を持つがすぐかっとなる性格の弁護士で、レオナルド・ダ・ヴィンチの友人であった。紫色の変ったマントと黒くて小さい縁なし帽をいつも身につけていて、55歳で歯をすべて失った。
ジローラモの母キアラ(旧姓ミシュリア)は3人の子持ちの若い未亡人で、何年も経ってからファジオと結婚した。太っていてファジオに劣らず癇癪(かんしゃく)持ち、すぐに腹を立てた。その一方で、信心深く知性も高かった。身ごもっていたときにミラノで疫病が発生したため田舎に避難したが、町に残った3人の子供は病死した。ジローラモの誕生が近づいても喜ぶ気持ちにはなれなかった。「あらゆる堕胎薬を試しても効かず、私は1501年9月24日に自然出産で生まれた」
ファジオは本業こそ弁護士だったが、ダ・ヴィンチに幾何学に関する助言をするほどの数学の左脳の持ち主で、パヴィア大学やミラノのピアッテイ財団では、幾何学を教えていた。そして、その数学と占星術の技を私生児の息子にも伝授した。「幼い頃に父から算法の基礎を教わって、難解な事柄も身につけた。……アラブの占星術の基本も指南された。……12歳になると、エウクレイデスの最初の6冊の著作を教わった」
ジローラモは子供の頃は病弱で、父親は弁護士の仕事を継がせようとしたがだめだった。パヴィア大学に医学生として入学し優れた成績を収め、無遠慮な性格が多くの人に嫌われたものの、1票差で総長に選出された。その成功で宇宙展になったのか、この頃、剣と楽器を携えて街の通りを徘徊し、ギャンブルに手を染めるようになった。確率を数学的に理解していたために明らかに有利で、1564年頃には確率論に関する初の著作『運のゲームに関する書』を書いた(出版されたのは1663年とかなりのちのことふだった)。チェスの才能も金儲けにつながった。しかしどんどん自堕落になっていって、運も相続した財産も失った。
それでも前へ進みつづけた。医学の学位を手にしたカルダーノは、儲かる職業に就いて快適な生活を送るために、ミラノ医師会へ入会しようとした。しかし、思ったことをそのまま口に出す性格が今度こそ災いして入会を拒否されたため、近くの村で医師として働きはじめた。何とか生活できるほどの収入を得て、民兵の指揮官の娘ルチア・バンダリーニと結婚した。しかし医師会への入会を再度拒否されると、以前の自堕落な生活に逆戻りして財産を失った。ルチアの宝石を含め家財を残らず質に入れ、救貧院に身を寄せた。「破滅だ! 終りだ!」とカルダーノは書いている。
ルチアとのあいだに子供が1人生まれ、軽度のさまざまな先天異常があったものの、当時は奇形とみなされるほどではなかった。父ファジオが亡くなると、ジローラモはその後継者に指名されて、ようやく人生が上向きはじめた。1539年には医師会も門前払いをあきらめた。カルダーノはもう一つ新たな成功の糸をたぐり寄せた。数学書を何冊も世に出し、そのうちの1冊がカルダーノの数学の開拓者の一員に位置づけることとなるのだ。