じじぃの「人の死にざま_1628_ニールス・アーベル(数学者)」

Niels Henrik Abel 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=95jj-qTr5hw
Niels Henrik Abel

11月20日 NHK Eテレ 数学ミステリー白熱教室 第2回「数の世界に隠された美しさ〜数論の対称性〜」 より
これは2次方程式だ。
ax2 + bx + c = 0
2次方程式の解はアル・フワーリズミーの著作に記されていた。8〜9世紀のアラビアの数学者だ。1200年ほども前だ。
ちなみに、いくつかの公式はさらに遡ること600年ほど前のギリシャの哲学者ディオファントスも知っていたという。
アル・フワーリズミーの本はその後の数学に大きな影響を与えた。
ソビエトでは、アル・フワーリズミーの生誕1200年の記念切手が発行された。
本のタイトルに含まれる入れ替えに関係するアルジャブルというアラビア語だ。ここから代数学の語源になった。
アルゴリズミと間違って発音された。彼の名前もアルゴリズムの語源になった。
3次方程式が見つかるまでにはそこから700年経った。
ax3 + bx2 + cx + d = 0 の解が示された。
これはラジカル(累乗根)を含んでいる。カルダーノの公式だ。
これは大スキャンダルだった。この公式はイタリアのデル・フェッロが発見した。当時の数学者は競争相手があるので発表しなかった。勝負で勝つためだ。相手にこれを解け、といって解けなかったら負けだ。
タルタリアも解の公式を得ていた。タルタリアは秘密の公式をカルダーノに漏らした。話がうまいペテン師。誰にも言わないという約束で。4年は約束を守ったが、デル・フェッロに見せてもらった。
タルタリアのは公表しないが、デル・フェッロのを公表すると、アルス・マグナという本を書いた。代数の根本という副題。
タルタリアは激怒した。残りの人生を私が発見したと言ってまわることに費やした。
そして、そのカルダーノの弟子、フェラーリ。4次方程式の解の公式を発見した。そのフェラーリがタルタリアを破滅させる。カルダーノとの勝負を望んだが、弟子のフェラーリとタルタリアが勝負したのだ。
フェラーリの圧勝だった。タルタリアは職を失った。
では、5次方程式に解の公式はあるのか? 6次方程式以上では?
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/math/detail02.html
ニールス・アーベル ウィキペディアWikipedia) より
ニールス・ヘンリック・アーベル(Niels Henrik Abel、1802年8月5日 - 1829年4月6日)はノルウェーの数学者である。
5次以上の代数方程式には、冪根 n√ と四則演算だけで書けるような一般的な解の公式が存在しないことに、初めて正確な証明を与えた。この業績については、パオロ・ルフィニの重要な貢献があるが、その証明は必ずしも完全なものではなかったとされている。
彼の名を冠する賞として、アーベル賞が2001年に創設された。またアーベルの肖像は長期にわたってノルウェーの500クローネ紙幣に描かれていた。

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『数学の言葉で世界を見たら 父から娘に贈る数学』 大栗博司/著 幻冬舎 2015年発行
「難しさ」「美しさ」を測る より
2次、3次、4次と方程式の解の公式が発見されたので、5次方程式を解くことができるはずと思われた。ところが、デル・フェッロから300年の間数学者たちが努力したのに、解の公式は見つからなかった。ガウスの「代数学の基本定理」によると、どんな次数の方程式でも複素数の解を持つはずだ。それなのに、あるはずの解を、平方根や立方根などのべき根で表す方法が見つからなかったんだ。
そこに登場したのが、1802年ノルウェーに生まれたニールス・ヘンリック・アーベルだった。アーベルは、5次方程式の解の公式が存在しないことを証明した。数学者たちは、「解けない問題」に挑戦していたというんだ。5次の場合は、3次や4次よりも「もっともっと難しかった」ということになる。
何かができないことを示すのは難しい。たとえば、第5話では、「自然数とその算術を含む公理系の無矛盾性が証明できない」という第2不完全性定理を紹介した。方程式の場合にも、解の公式が「ある」ということなら、公式を書いてみせて、解になっていることを計算してみせればいい。
しかし、公式が「ない」ことを証明するのにはどうしたらいいか。4次方程式までは解けたのに、5次になったとたんに何がどう変わってしまったのか。それを理解するためにアーベルが使ったのは、「方程式の難しさを測る方法」だ。これについては、後でじっくり説明しよう。
アーベルは17歳のときに5次方程式の解の公式を発見したと思い、論文も書いたが、これは間違いだった。そして21歳のときに、「5次の一般方程式の解法の不可能性を証明する代数方程式に関する論文」を書くが、難解さのためにすぐに理解してもらえなかった。幸いなことに、ベルリンの数学者アウグスト・レオポルド・クレレと友人になり、彼の創刊した数学誌の第1号にこの論文が掲載されたのが23歳のときだった。その後、アーベルはクレレの雑誌に次々に論文を発表し、名声は高まったが、大学に職を得ることができず、経済困窮の中で結核にかかる。クレレはアーベルのために努力し、ベルリン大学の教授の椅子を確保したが、クレレからの吉報が届いたのは、アーベルの死の2日後のことだったという。まだ26歳だった。
ノルウェーオスロに行くと、中心街を見下ろす王宮の庭に巨大なアーベル記念碑が置かれている(画像参照)。首都の最も重要な位置に置かれているのが、政治家や軍人でなく、5次の一般方程式の解法の不可能を証明した数学者の記念碑だということが素晴らしい。ノルウェーの人たちがアーベルをどれだけ誇りに思っているのかがわかる。