じじぃの「歴史・思想_105_数学の天才・先駆者・劉徽(りゅうき)」

V414-1 劉徽~趣談數學家~平面幾何圖形~第四冊第二章~南一版

動画 YouTube
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劉徽

劉徽(りゅうき)とは

コトバンク
中国,三国の魏の数学者。
生没年不詳。263年《九章算術》の注解定本を作り,注の中で極限の考えを用いて円周率・面積・体積を計算した。ほかに《海島算経》を著した。

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『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』

イアン・スチュアート/著、水谷淳/訳 ダイヤモンド社 2019年発行

道の師 劉徽(りゅうき) より

●劉徽(中国・魏、3世紀)
『周髀算経(しゅうひさんけい)』(日時計と天空の循環経路の算術の古典)は、紀元前400年から前200年までの戦国時代に書かれた、知られているなかで最も古い中国の数学の文書である。
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この『周髀算経』からわかるように、ギリシャのヘレニズム時代(アレクサンドロス大王が亡くなった紀元前323年から、共和政ローマギリシャを併合した前146年まで)の頃、中国の数学は進んだ状態にあった。ヘレニズム時代は古代ギリシャの学問的優位性がピークに達した時期で、古代世界の優れた幾何学者、哲学者、論理学者、天文学者の大部分を排出した。ローマの支配下でもギリシャは紀元600年頃まで文化と科学を発展させつづけたが、数学の進歩の中心地は中国やアラブやインドへ移った。ルネサンス時代まで最先端の数学がヨーロッパに戻ってくることはなかったが、そのいわゆる「暗黒時代」も言われてくるほど暗黒ではなく、ヨーロッパでも多少の進展はあった。
一方、中国の進歩はすさまじかった。最近までほとんどの数学史がヨーロッパ中心の見方を取って中国を無視していたが、その後、ジョージ・G・ジョーゼフが著書『非ヨーロッパ起源の数学』で極東の古代の数学について著した。古代中国の数学者のなかでも最も偉大なのが、劉徽である。漢のシの候の子孫で、三国時代に魏の国に住んでいた。そして263年、中国の有名な数学書『九章算術(きゅうしょうさんじゅつ)』に収められた数学問題の回答をまとめた本を出版した。
劉徽の業績としては、ピタゴラスの定理の証明、立体幾何学の諸定理、アルキメデスによるΠの近似値の改良、たくさんの未知数を含む一次方程式の体系的解法などがある。劉徽は、測量術、とくに天文学への応用について書き記している。古代中国の4つの都の1つ、洛陽を訪れて、太陽の影の長さを測定したらしい。

精確なΠの近似値を求める

『九章算術』の第1章では、長方形、三角形、台形、円などさまざまな形の田畑の面積を計算する方法が説明されている。その計算規則は円を除いてすべて正しい。遠位ついても計算の「方法」は正しく、半径と円周の半分とを掛け合わせよと記されている。しかし円周が半径の3倍と計算されており、Π=3と置いたことになっている。実用面で言うと、面積を5パーセント足らず小さく見積もることになる。
紀元前1世紀、支配者の王莽(おうもう)が、天文学者の暦の製作者の劉歆(りゅうきん)に、体積の標準的な単位を定めるように指示した。そこで劉歆は、きわめて精確な円筒形の青銅の器を作り、それを単位の基準とした。その何千個もの複製画中国全土で使われた。原物の器はいまでも北京の博物館に収められており、その寸法から判断して、劉歆はΠの値として約3.1547を使っていたという説がある(青銅の器の大きさを測定することでどうやってこれほど精確な値が得られるのかは、少なくとも私にはよくわからない)。『随書』(隋の公式の歴史書)にも、劉歆がΠの新たな値を発見したという旨の記述がある。

中国人数学者の考え方はヨーロッパも伝播したのか

古代中国の数学者はどんな面でも同時代のギリシャ人に引けを取ってはおらず、劉徽の時代以降の中国の数字には、ヨーロッパの数学に先んじた発見が数多く見られる。たとえば、劉徽と祖沖之が導いたΠの概算値よりも優れた値は、それから1000年ものあいだ出てこなかった。
ジョーゼフは、中国人数学者の考え方が交易とともにインドやアラブへ、さらにはヨーロッパへ伝わった可能性はないかどうか検討している。もし伝わったのだとしたら、ヨーロッパにおけるその後の発見は完全に独立したものではなかったことになる。6世紀にはインドに中国の外交官がいたし、7世紀にはインドの数学や天文学の書物が中国語に翻訳されている。