じじぃの「科学・芸術_900_チリ・江戸末期・日本との交流史」

Sightseeing in Santiago Chile

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ymK9gdqG1e4

Chile’s capital city of Santiago

南米チリに渡った最初の日本人(旅の記録-バルパライソ

2012-04-07 豆の育種のマメな話
チリの首都サンチアゴ・ターミナルから,68号線に沿って山並みを眺めながらバスに揺られること約2時間,バルパライソに着く。この町はサンチアゴに次ぐ第二の都市であるが,ターミナルやその周辺の店舗は南米独特の雑然さが漂よい,旅行者も自然と溶け込める雰囲気がある。
「チリに上陸した最初の日本人を知っているかい?」
「ジョン万次郎がバルパライソに立ち寄ったと聞いたことがあるわ。この港なのね」
「それは,1850年嘉永3)4月のことだ。ただ,子孫の中浜博は万次郎が寄港したのはバルパライソでなく,南部のタルカウアノ港であったと訂正しているがね。これより8年前の1842年(天保13)頃,メキシコからチリへ渡った3人の漂流民がいたらしいと,熊田忠雄は書いているよ」
https://blog.goo.ne.jp/taktsuchiya/e/da31b36b7b25cf753a3078f28a115e09

『チリを知るための60章』

細野昭雄、工藤章、桑山幹夫/編著 赤石書店 2019年発行

日本とチリの交流史① 江戸末期から第二次世界大戦まで より

チリと日本の正式な外交関係は、両国間で「日智修好通商条約」が集結された1897年に始まる。これに先立つ交流としては、従来、1867年に日本の船舶が新たな航路を探してチリのバルパライソ港に立ち寄ったのが最初だとされてきた。1914年にパナマ運河が開通し世界の航海図が書き換えられる以前であり、当時バルパライソ港は太平洋横断航路の重要な寄港地であった。

しかし、近年チリに最初に足跡を記したのは実は、有名なジョン万次郎で、1850年コンセプシオンの外港タルカワノに立ち寄っていたことが確認された。

さらに、明治政府が誕生して間もない、1883年には、伊東祐亨艦長率いる練習船龍驤」が、日智間の初の海軍交流としてチリを公式訪問している。伊東艦長は後年1895年の日清戦争黄海の開戦で、日本艦隊の司令長官として活躍した。
一方、1888年チリの海防艦「アバト」が日本を訪問、チリ艦長は東京で外相、海相(西郷従動)他を表敬し、将来の通商関係に関し始めての折衝がなされたとされている。その後、1894年には、チリ海軍の巡洋艦エスメラルダ3世」を譲り受け、日本で「和泉」と命名されて日露戦争で大活躍した。
幕末、日本は、欧米列強から不平等条約を締結させられた。日本にとって不平等条約の廃止は悲願であったが、日本とメキシコが1888年に締結した修好通商航海条約は、アジア諸国以外で初めての平等な条約の締結となった。続いて、1895年ブラジルと締結する。こうした中、1897年9月25日、ワシントンにおいて日本の星亨、チリのドミンゴ・ガナ両駐米大使間で、日智修好通商航海条約が調印され、1906年約および追加条項が批准され発効した。
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1940年1月には、チリにおいて、日智文化協会が設立された。また、1941年5月には、サンティアゴ市の市制400周年際し、チリの日本人社会が縦20メートル、横30メートルという巨大な絹製のチリ国旗を寄贈した。これらは、戦前の時期にあっても、日本とチリの交流が次第に深まっていったというおkとを物語るものであると言えよう。
しかし、1941年12月日本の真珠湾攻撃により、太平洋戦争に突入した。これに対し、米州諸国は、1942年1月、リオデジャネイロで開催された会議で対枢軸国(ドイツ、イタリア、日本)断交が決議され、米州の10ヵ国は日本との国交を断絶するに至った。チリの場合は、銅の戦略的重要性から、米国からの強い政治的圧力がかかり、1943年1月対日外交関係断絶を決定した。しかし、日本側の資産凍結などは行なわれず、断交当初強制移住させられた27名のチリ在住者も漸次解除され、最終的には6名を残すのみであったと記録されている。最終的にチリは終戦の数ヵ月前の1945年4月20日に日本に宣戦布告するが、アルゼンチンと共に最後まで親日的姿勢を貫いたことは、日智両国の友好関係を象徴するものとして記憶されている。