じじぃの「科学・芸術_688_ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』」

Philosophy by Arthur Schopenhauer 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gyCY5BLi4cs

読書について 他二篇 感想 ショウペンハウエル 読書メーター
衝撃の本だ。もやもやと何となく思っていたことだが、ショーペンハウエルが明確に言う。読書とは思索のしもべだ、と。思索に資する限りで読書は価値があり、そうでない読書は時間のムダ。まして多読は禁物、当世のベストセラーなんて無視しろ、と。******* これで俺の積読本への方針が決まった。全部資源ごみに直行だ!!
https://bookmeter.com/books/571378
『冒頭を読む 世界の名著世界の名著101』 熊木信太郎/編訳 論創社 2018年発行
意志と表象としての世界 アルツール・ショーペンハウアー(1788〜1860) より
ドイツの哲学者。ポーランドグダニスクに生まれ、ゲッティンゲンとベルリンの両大学で学ぶ。1819年に主著『意志と表象としての世界』を刊行、その後ベルリン大学で教鞭をとるも、同時期にベルリン大学正教授だったヘーゲルの人気に逆らえず、職を退く。その後はフランクフルトに隠棲。
第一章
「世界は私の表象である」これは生き、かつ認識するすべてのものに当てはまる真理である。しかしただ人間のみは、この真理を反省的・抽象的に意識できる。人間が本当にそうするならば、彼は哲学的思慮に到達する。そして、自分が認識しているのは太陽と地球ではなく、目が太陽を見、手が地球を触れているに過ぎないこと、自分を取り囲む世界は表象としてしか存在しないこと、すなわち他の何か、つまり自分自身であるところの意識との関連でしか存在しないことが、明白かつ確実になる。もし何らかの真理が前もって示されるなら、それこそがこの真理である。それは存在し得る、そして考え得るすべての経験の、最も普遍的な形態を表現したものだからである。その形式は時間や空間、あるいは因果関係といった形式よりも普遍的なもので、それらはいずれもこの真理を前提としている。また我々はこれら形式を、根拠の原理の数多くある形式として見てとったのだが、その一つ一つは様々な表象の特殊な一部門にしか妥当しないのに、客観と主観の相違はあらゆる部門に共通する形式であり、抽象的であろうと直観的であろうと、あるいは純粋であろうと経験的であろうと、可能でありまた考え得る表象不可欠な形式だからである。それゆえ、この真理ほど確実で、他のすべてから独立しており、証明の必要がないものは存在しない。したがって認識に対して存在するすべてのもの、すなわちこの世界全体は主観との関連における客観に過ぎず、認識する者の認識、つまり表象に他ならない。これは現在においてのみならず過去および未来においても、また近いものにおいても遠いものにおいても明白な真実である。と言うのも、この真理は、それらの差異が生じるところの時間と空間自体においても妥当だからである。この世界に属するもの、または属し得るものはすべて必然的にこうした主観によって条件づけられており、その主観にとってのみしか存在しない。世界は表象である。
この真理は決して新しいものではなく、デカルトが始めた懐疑的考察にも内在している。しかしこの真理を最初にはっきりと表明したのはバークリーであり、彼の他の学説は長く存在し得ないものの、これによって彼は哲学史上普及の貢献をなしえたのである。
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したがってこの第一巻では、世界をこの側面からのみ、すなわち世界が表象である限りにおいてのみ考察する。この世界を単に自分の表象としてのみ受け入れる人間の内なる不満は、そうした見方がいかに真実であろうとも、一方的なものであり、なんらかの恣意的な抽象の結果として生じたものではないかと考えている。しかしその一方、誰もこの観念から逃れられないのである。そうした見方の不完全性は、別の真理によって第二巻で修正されるだろう。その真理は我々が第一巻で出発点とする真理ほど直接的に確実ではなく、より深い考察とより厳格な抽象、および異なるものを分離し同一のものを結合させることによってのみ到達し得る。この真理は、万人にとって恐ろしいものとは言わぬまでも、極めて深刻かつ印象的なものである。そしてすなわち、「世界は表象である」と誰もが言うことができ、かつ言わざるを得ないということである。