じじぃの「科学・芸術_663_カルタゴ・フェニキアの海の終わり」

Ancient Phoenician Ports and Colonies 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=rn4xHbPXOHY
ポエニ戦争 (y-history.net HPより)

Hannibal crossing the Alps

ポエニ戦争 世界史の窓
前3〜前2世紀にかけて、ローマとカルタゴの西地中海の覇権をめぐって前後3回にわたった戦争。ローマはこの戦争に勝ち、西地中海の制海権と共に多くの属州を獲得、世界帝国への歩みを始めた。
紀元前3世紀中頃から前2世紀の前半まで、3回にわたって起こったローマとカルタゴの西地中海の覇権を巡る戦争。第1回が前264〜前241年、第2回は前218〜前201年、第3回が前149〜前146年。ポエニとは、ローマ人がカルタゴ人のことをそう呼んだことによる。カルタゴは現在のチュニジアにあったフェニキア人の植民市が発展した商業国家。西地中海でローマの最大の競争相手であったが、この戦いによって滅亡し、勝利したローマが西地中海支配を確立させ、世界帝国に成長する端緒となった。また、並行するマケドニア戦争でギリシアを征服し、その属州支配を地中海世界全域医及ぼしたことは、ローマ共和政の本質を転換させ、前1世紀の内乱の1世紀を経て、ローマ帝国が成立することとなる。
https://www.y-history.net/appendix/wh0103-025.html
『通商国家カルタゴ (興亡の世界史)』 佐藤育子、栗田伸子/著 講談社 2009年発行
フェニキアの海の終わり より
カルタゴはなぜ滅びたか――ローマはなぜカルタゴを滅ぼしたか――という問いには、古来、さまざまな答えが用意されてきた。カルタゴ内部における「民主派」=反ローマ派(バルカ「革命」やハンニバルによる改革の流れをくむとされる)の台頭や、カルタゴの商工業・商品作物生産の発展がローマに脅威を感じさせたとする説、あるいは逆にカルタゴが弱くなりすぎたために放置すればヌミディア王国(アルジェリア北東部)に併呑されかねず、そうするとヌミディアが強大化して脅威となるのでローマが先手を打って自らカルタゴを滅ぼしたとする説など、さまざまである。
しかしこれらの説は、第3次ポエニ戦争前のカルタゴに、何か他の国にはない特殊な条件――「落ち度」あるいは処世術の欠如――があって滅ぼされたかのようなニュアンスをともなっている点では共通している。カルタゴ側に何か原因がなければローマが滅ぼすはずがない、という理解が前提となっているのだが、おの前提ははたして正しいのであろうか。
前201年以降の数十年のうちに地中海周辺は様変わりしていた。ポリュビオスは、第2ポエニ戦争開始の第140オリンピア期(前220〜前216)以来、世界は変わったと言う。それまで各地域の事件はバラバラであったが、これ以降、歴史は関連した1つの全体構造を示すようになり、イタリアとリビアの事件はアシア(小アジア)とギリシャの事件と絡み合い、すべてがただ1つの目標、つまりローマの世界支配へと向かった、と彼は述べる。ローマは第2次ポエム戦争でカルタゴを制圧するやいなや、ただちに他の地域に手を出し、ギリシャとアシアにあえて出兵した、すなわちその時すでに明確な世界支配の構想を抱くに至っていたというのである。
実際、ローマは前200年にはマケドニアのフィリッポス5世に宣戦布告してキュノスケファ7ライの戦い(前197年)でこれを下し、以後「ギリシャ人の自由」の擁護を掲げつつヘレニズム世界征服に乗り出した。マケドニアの次はセレウコス朝シリアが標的となった。シリア王アンティオコス3世は東方の反乱を平定し、東はバクトリアから西はフェニキア小アジアまで勢力下におさめて大帝国を築きつつあったが、トラキア進出をきっかけにローマとの戦争へと導かれ、テルモピュライとマグネシアで敗れて和を乞わざるをえなくなった(アパメアの和約、前188年)。
このシリア戦争の時に、ハンニバルがアンティオコス大王のプレーンの一人として暗躍したことは、カルタゴにとってはローマとの関係を悪化させるマイナス材料だったことであろう。ザマの敗北後のハンニバルは、不思議にも失脚にも免れ、スーフェース職につき、「民主的」と言いうる国制改革を試みたが、ローマの介入と寡頭派の巻き返しにあって失脚し、東方へ亡命してシリア宮廷に身を寄せていた。アンティオコスはテュロスを含むフェニキアを支配していたから、カルタゴはシリアの臣下筋でもあった。
艦隊をもってイタリアを急襲しようというハンニバルの建策は容れられなかったが、彼は実際フェニキア地方から集めた艦隊を率いて、ローマ側についているロドス島の艦隊と戦った。しかし、これが彼のローマに対する最後の戦闘となる。シリア敗北後、ローマへの引き渡しを恐れた彼は、ヘレニズム世界を転々としたあと、前183年、小アジアビテュニアで自殺した。
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前146年の春――飢えと恐怖、絶え間のない攻撃と迫り来る死の気配のなかで営まれていたカルタゴの生活は、とうとう週末に至る。ビュルサの丘と港湾(コトン)地区への攻囲が強まる中、ある夜、ハスドゥルバルは四角い商港のほうに火を放った。スキピオの攻撃を食い止めるためだったろう。
カルタゴの守備兵がそちらへ向かった時、スキピオの武将ラエリウスの一隊は、円形の港(東港)の壁に登った。湧き上がるローマ兵の関(とき)の声は、もう勝利したかのようだった。たちまち港一帯はローマの攻城器械、材木と足場で一杯になる。飢えと落胆で守備兵の抵抗は弱かった。翌日の夕方までには、ローマ軍は港の周囲の壁を制圧し、隣接する公共広場(アゴラ)を押え、武装したままそこで夜を明かし、次の朝4000の後続軍とともに市内へ突入した。「アポロン」神殿が略奪され、黄金の社(やしろ)は戦利品として細切れにされて分配された。その間もスキピオの攻撃は住民の多数が逃げ込んでいたビュルサの丘へと向かっていた。公共広場からビュルサへと登る3本の通りの両側には、6階建ての建物が密集している。その一軒一軒をめぐってすさまじい市街戦が展開された。