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Scarpelli, Florentine mosaic
『フィレンツェ――比類なき文化都市の歴史』 池上俊一/著 岩波新書 2018年発行
近現代の苦悩と輝き より
イタリアが統一国家になってからは、いちだんと多くの外国人がやって来た。この地に想を得て筆を執る作家も多かった。ジョージ・エリオットの『ロモラ』(1862/63)やヘンリー・ジェイムズの『ある婦人の肖像』(1881)などがその例である。またイギリスのヴィクトリアはフィレンツェが大いに気に入り、3度も訪れている。フィレンツェを訪れた外国人たちは、昼間はカフェやクラブでコーヒーやチョコレートを飲みながら情報交換したり談笑したりし、夜ともなれば劇場で演劇・オペラを鑑賞した。
こうした英米人の文人・知識人は、なぜ大挙してフィレンツェを目指したのだろうか。たとえばイギリスの美術評論家ジョン・ラスキンが『フィレンツェの朝』(1875-1877)で主張した――それを後続のヴィクトリア朝期の文人が無数に反復した――ところでは、フィレンツェは、方向性を見失った北方芸術と、勇気と美徳を欠いていた南方芸術の中間にあって「北方人の熱意を平和の芸術へと導き、ビザンツ人の夢を慈愛の火で燃え立たせた」というような、理想の芸術を生み出す奇跡的な場所と考えられた――ということかもしれない。
おそらく彼を筆頭に19世紀のたいていの文人には、フィレンツェは実際に暮らしやすいかどうかに関係なく、どこもかしこも美しい快適無比の町と見えたようだ。彼らは町じゅうにあちこちほっつき歩きながら、いたるところに美を見つけ、チメブーエやジョット・ダナテッロやミケランジェロがそこにいるかのように、うっとりと夢想に耽ったのだろう。
こうして、自分たちの名誉のために美を創造して、日々その意義を語り合い批評し合っていたルネサンス期のフィレンツェ人とはうって変わり、外部に大きく開かれ、記憶と賞翫(しょうがん)の美しき都となったフィレンツェでは、外国人の嘆賞の声を聞きながら、当の市民は何を思っていたのだろうか。
1870年10月、住民投票の結果、ローマのイタリア王国への併合が圧倒的多数の賛成で決まり、翌年にはローマが統一イタリアの首都となった。首都の座を明け渡したフィレンツェでは、人口は激減し経済も停滞、一地方都市に戻ってしまった。しかしイタリアの首都でなくなったことはマイナスばかりではない。空き家になった邸館には美術館、学会などが入ったからである。
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芸術のリーダーとして14ー16世紀に世界に輝いていたフィレンツェは、もはやその衰退から立ち直ることはなく、とりわけ近代には、過去の輝かしい遺産に、まずは先に述べたように国内外の文人や趣味人を、ついで一般観光客を蝟集(いしゅう)させることになる。ここには創造性のカケラもないが、より地道な分野ではフィレンツェの創造性は健在だということを、見逃さないようにしよう。「物づくり」「職人技」である。
フィレンツェの物づくりの大半は、大規模な工場での大量生産ではなく、まさに小さな工房でひとつひとつ丁寧に手作りしていく家内工業である。家具、靴、メガネ、バッグ、布地、ランジェリー、マット、刺繍品、額縁、軽量器機、陶磁器、ガラス工芸、麦藁帽子、文具、宝飾、楽器、時計……など数え上げればきりがないほど、その質の良さとデザイン性で世界的に名を知られるメーカーが多数ある。16世紀半ばまで遡る宝石商のセッテパッシのように、きわめて良い伝統を誇る店もある。とくに仕立屋や靴屋は、美しく気品があり飽きの来ない製品作りで令名が高い。
1950年代以降、フィレンツェがイタリア・モードの中心地として世界的にその名が轟いたのは、フィレンツェの貴族ジョヴァンニ・バッティスタ・ジョルジーニのファッション・ショー企画によるところが大きかった。だからブチュラッティ、グッチ、サルヴァトーレ・フェラガモ、エミリオ・プッチなど有名ブランドがフィレンツェに本店を構えているのは当然だろう。こうして現在のフィレンツェは、目眩くようなルネサンス期の美術品と、現代の洒落た工芸品・ファッション品によって世界じゅうの観光客を集めているのである。