じじぃの「科学・芸術_543_ミキモト真珠・私も真珠が欲しい」

Pearl History 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NOgnHJszhlA
養殖真珠

海女 MIKIMOTO PEARL ISLAND
かつて、海女は真珠の養殖にとってなくてはならない存在でした。海底に潜ってアコヤ貝を採取し、核入れした貝を再び海底へ。また、赤潮の襲来や台風の時には、貝をいち早く安全な場所に移すなど、海女の活躍がなければ養殖真珠の成功はありえなかったことでしょう。
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/ama/index.html
『宝石 欲望と錯覚の世界史』 エイジャー・レイデン/著、和田佐規子/訳 築地書館 2017年発行
真珠と日本――養殖真珠と近代化 より
木に金は成らないが、牡蠣の中では真珠が育つ。しかも急速に。特に他の宝石が非常にゆっくりと形成され、その中の多くが100万年から1000万年の年月と、非常に特殊な環境圧を必要とするのとでは大きく異なる。この事実や商品価値の高さに気づいて、真正の真珠を育てようと試みたのは御木本が最初というわけではなかったし、最初に成功した人物でもなかった。鉛を金に変えようとした錬金術師のように、牡蠣に真珠を生成させることは、何千年にもわたって、多くの科学者や魔法使いが強い関心を抱いていた。御木本が成功するまでに、何千年もの間、真珠養殖の挑戦の歴史が続いていたのだ。
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御木本真珠店は完全に真珠だけを扱う最初の宝石店だった。1店舗を真珠で埋め尽くすだけの真珠を用意できる者は他には誰もいなかった。供給の問題以外にも、宝飾店の小売業に参入したのには理由があった。御木本は自分の真珠を売る小売店以上のものを求めていた。真珠を売り込む時のイメージを探していたのだ。養殖真珠は本物の宝石で、人工物ではないことを世界に納得させるには、自分の真珠を宝飾店として人々の目の前に見せることが1番だとわかっていたのである。
1919年、御木本は十分な真珠の供給が確保できると、世界征服を目標に定めた。彼はロンドンを皮切りに、パリ、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスと、世界中の大都市に次々と支店を開設した。真珠のネックレスに加えて、彼はデザイナーを雇って、現代西洋の宝飾店や帯留の「矢車」という作品のように、目を見張るような素晴らしい美術品を制作させた。これはダイヤモンド、サファイア、エメラルドの他、41個の完全に粒の揃った見事なアコヤガイの真珠を使用したものだった。ヨーロッパの現代的なアールデコ風の外見だったが、他にはない日本的な味わいがあった。部品を分解し、再度組み立てることで12通りの宝飾品にできるようになっていた。
御木本の傷のない、全てが直径およそ6ミリから8ミリの真円の真珠を見た世界の真珠ディーラー達は仰天した。これは、御木本が狙っていたのとは異なる反応だった。
何千年という長きにわたって、完璧な真珠は手に入らないものという考えのうえに真珠産業は築かれてきていた。しかし、御木本の真珠は完璧だった。実際、いわゆる「本物の真珠」よりも完璧だった。御木本の真珠は、より低価で全く見事だというだけでなく、数が豊富だったのである。養殖真珠は津波のように日本から押し寄せてきて、市場から競争をかき消してしまった。御木本の真珠が自然界から見つけ出された真珠と品質が同じだったとしても、その供給量の多さは真珠産業の存続に対して破壊的な威力となった。1938年のピーク時で日本には約350ヵ所の養殖場があり、年間生産量は1000万個だった。それに対して、天然の真珠は年間およそ数ダースから数百個の範囲で採集されていた。
御木本は既存のサプライチェーンを台無しにしただけでなく、宝飾店の市場でも競争に参入した。彼は垂直統合の開拓者だった。自社で宝飾品を制作し、展示し、その見本を世界中に送り出した。これは盤石の真珠産業にとって徹底的な痛手を意味した。
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大将連を手に入れることは誰にもできなかった。しかし、誰でも御木本の真珠を手にすることはできた。誰でも、だ。御木本が最初の1粒の真珠を生み出すはるか前、世界中の女性の首を真珠のネックレスで飾るのが自分の夢だと、彼は手紙に認(したた)めていた。それで、彼はあらゆるサイズの、可能なかぎりの量で、幅広い価格帯の真珠を作り出した。その結果、富裕な特権階級に限られたものではなくなったが、貴石としての価値と人気を保持できたのは、御木本の天与のショーマンシップと大将連、世界で最も安全で誰でも手に入れることのできない真珠のネックレスの功績が大きかった。
その結果、真珠養殖は経済と産業の近代化を目指す明治のきわめて重要な局面となった。そのことを御木本自身もわかっていた。確かに彼は完全性に取りつかれていて世界樹の女性を真珠のネックレスで飾るという夢に夢中になっていたのかもしれないが、彼は決して商売を知らないわけではなかった。完全性については武士の精神を持って臨んでいたし、詩人の魂を宿していた。明治維新から利益を受けて、その恩返しをしようとしていた。アメリカが大好きだったのと同じくらいに、彼は愛国主義者だった。最初に成功した真円真珠は天皇に捧げた。世界の真珠貿易の75パーセントが神戸経由で行われていることからしても、ある意味では彼は真珠産業全体を自分の国のために捧げたと言えよう。