じじぃの「科学・芸術_505_自然死のすすめ・脳内モルヒネ」

中村仁一先生講演会 『自然死のすすめ』 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rIXXGBz0pUE

  

NHKスペシャル 老衰死 穏やかな最期を迎えるには 2015年9月20日
芦花ホームの常勤医を務める石飛幸三です。施設に勤めて10年になります。
多くの人が自分の“最期”の迎え方を真剣に考える時代になりました。医療技術の発達によって、命を延ばすさまざまな延命治療法が生まれ、そのことが、逆に家族や本人を悩ませることになっているのではと感じています。私たちは人生の終末期をどのように迎えればいいのか迷い道に入ってしまったのかもしれません。
施設では、本人や家族と話合いを続けながら、胃ろうなどの延命治療に頼るのではなく、自然の摂理を受け入れ、静かに最期を迎えてもらう取り組みをすすめてきました。入居者の皆さんが亡くなられる前には、次第に食べる量が減って、眠って、眠って最期は穏やかに息を引き取られます。私は老衰による安らかな最期を「平穏死」と呼んできました。
実は、施設に来るまで、自然な最期がこんなに穏やかだとは知りませんでした。40年以上外科医として、徹底した治療を続けてきました。“死”を遠ざけていたのは、医師である私自身だったのです。
http://www.nhk.or.jp/special/rousui/
『「治る」ことをあきらめる 「死に方上手」のすすめ』 中村仁一/著 講談社+α新書 2013年発行
死にざまは自分で決める――やがてくる日の迎え方 より
「老後をどのように生きるか」については、2通りの考え方があるようです。
1つは、後退理論といって「人は年をとったら社会的な役割を、若い世代に引き継いでいくのが、うまく年をとることに通じる」というものであり、もう1つは、活動理論といって「人は年をとってもできるだけ長く、また、できるだけ多くそれまでの活動を続けていくのが、うまく年をとることに通じる」というものです。
わが国では、ボランティアなど、できるだけ社会参加をしていこうということからもわかるように、”活動理論”が全盛です。
しかし、これは元気な人、意欲的な人、外交的な人、積極的な人、能動的な人、自己主張の強い人向きの、強者の理論であって、高齢者全部にあてはまるはずがありません。
若き志向、健康志向がプンプンとしていて、老いも死も、ともに否定されているような気がしてなりません。一時期あるいは一部の人にはいいかもしれませんが、この活動理論はとても一般向きとは思えません。
老年期は、もっと自己の内面に向かわなければ、収穫が得られるはずはないと思うのです。
     ・
食が細って、自分で飲み食いできないのは、寿命の尽きかけている証拠なのですから、唇を筆先の水で湿らす程度でいいのです。
飢餓や脱水は、意識のレベルが下がり、”脳内モルヒネ”が分泌されて恍惚状態になり、死の不安や恐怖を和らげているはずなのです。天の恵み、自然からの贈り物なのです。それを、脱水状態だからと点滴注射をして水分を補給して、正気に引き戻すのは、再び不安と恐怖のただなかに放り込んでいる可能性があるように思います。何と、むごい仕打ち、残酷なことではありませんか。
自然死をもう少し詳しく考えてみましょう。死は、自然の出来事です。自然死とは、できるだけ医療の関与を避け、自然の成り行きに任せた死のことです。実に、穏やかです。
少なくとも、40〜50年前までは、死にゆく過程に、今のような医療の濃厚な関与はありませんでした。その後、死にかけると病院へ行くようになり、身の回りから自然死が消えました。病院は、最後まで何かしら医療措置を行うところですから、病院の医者は、自然死を知りません。自然死を知っているのは、わたしのような老人ホームの医者や往診をしている医者の一部だけです。
在宅死なのに、なぜ自然死ができないのかを、何人かの熱心な往診医に尋ねてみました。彼ら自身も、医療行為は何もせずに見守る自然死がいいと思い、また、主たる介護者も賛成している、でも、実際にはできないといいます。
たとえば、主たる介護者が嫂(あによめ)だったとします。そこへ他家に嫁いだ娘が帰ってきて、「どうして入院させないの」「どうして点滴注射をしてもらわないの」と声を荒げるのだそうです。その時、嫂がこれがお義母さんに1番いいと思うと縷々(るる)述べたりすると、「お義姉さんは血のつながりがないから、平気でそんな冷たい仕打ちができるのよ」と、家族間に修復不能な亀裂が入ってしまう。それを避けようと思えば、点滴注射の1本も天井からぶら下げざるを得ないとのことです。
自然死の実態は、食べたり、飲んだりしなくなって亡くなりますから、いわゆる”餓死”です。しかし、普通の餓死とは違うのです。死んでいく人間は、身体が要求しません。従って、腹もへらず、のども渇かないのです。ですから、食べないから死ぬのではありません。「死に時」が来たから食べないのです。しかし、ここのところが、今の日本人には理解できず、食べないから死ぬと思ってしまいます。
食べないので”飢餓”状態です。”飢餓”では、β-エンドルフィンという”脳内モルヒネ”が分泌され、気持ちのいい状態になります。「脱水」では意識レベルが低下して、ぼんやりします。また、この頃になると呼吸状態も悪くなり、酸素不足(酸欠状態)となり炭酸ガスも体内に貯まります。「酸欠状態」でも”脳内モルヒネ”が分泌されるといわれます。
柔道に絞め技がありますが、あれで落とされて(失神して)苦しかったといっている人を聞いたことがありません。みんな気持ちよかったというのです。”脳内モルヒネ”が分泌されているためと考えられます。また「炭酸ガス」には麻酔作用があります。
つまり、「飢餓」も「脱水」も「酸欠状態」も「炭酸ガスの貯溜」も、すべて穏やかに安らかに死ねるような自然のしくみが、私たちの身体には備わっているのです。
ですから、死ぬということは、ぼんやりとした気持ちいいまどろみの中での、この世からあの世への移行を意味し、辛いことも苦しいこともないのです。
強制的な人工栄養や点滴注射や酸素吸入は、それを邪魔していることになります。従って、死に際に「できるだけの手を尽くす」のは「できる限り苦しめる」ことに外なりません。心すべきでしょう。