じじぃの「科学・芸術_427_ローマ帝国・共同浴場」

Welcome to the Roman Baths 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XdSbYW43Huk
ポンペイフレスコ画


Pompeii
http://marchouliston.com/Italy_2009/pompeii.html
『図説 不潔の歴史』 キャスリン・アシェンバーグ/著、鎌田彷月/訳 原書房 2008年発行
浴場へ、飲みに食いに語らいに より
ギリシャ人は水や湯の価値を認めたが、ローマ人は水や湯を崇めた。ギリシャのギュムナシオンでは、男たちは運動のあとに必要だから風呂を浴びた。ローマ人は、その優先順位を逆にした。ローマの人々は、風呂をより楽しむためにこそ運動をしたのだ。「hedonist(快楽主義)」や「sybarite(浪費家)」という英語はギリシャ語が起源になっていえ――おそらくギリシャ人がそういうタイプの人たちによくよく不信感をもっていたからだろう――が、こういった言葉はローマ人にこそふさわしい。帝政期ローマの人々は、すばらしい共同浴場の並外れた贅沢ぶりを推し進めては楽しんだ。
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スタビアナエ浴場の近くに、ポンペイ一大きな娼館があった。湯と裸とくつろぎという組み合わせは、浴場と娼家がすぐ近くにあるという傾向を生み出し、ときには浴場の2回で娼婦がサーヴィスを行なうこともあった。やはりポンペイにあるスブルバナエ浴場では、浴場とセックスのつながりが、そのまま壁画に描かれている。この紀元1世紀の浴場の、黄褐色で彩られた居心地のいい更衣室には、もとは仕切りがあって、そのなかで客が服を脱いでいたのだが、その仕切り版が失われてずいぶん経つ。しかし、板が立っていたところの上の壁には、露骨に卑猥なフレスコ画が8つ残っている。魚を振りかざしながら男性に挿入されようとしている女性に、オーラル・セックスをしたりされたりしている女性、ぴったりと合体している3人(男性2人と女性1人)ほか、同じようにお盛んな情景だ。近隣で楽しめるサーヴィスを宣伝している絵かもしれないし、単に浮かれていて感覚に訴える浴場の雰囲気を盛り上げるためのものなのかもしれない。独特の魅力とタッチで筆を走らせているそのフレスコ画は、無邪気なまでにあからさまで、私たちが思いつくような、男性も女性も、おそらくは子どもたちも利用する商業施設にふさわしい装飾とは、およそかけ離れている。
ローマ人は、清潔を、社会生活を送るうえの美徳と考えていた。(この点に関しては、テオプラストスが明言しているとおり、ギリシャ人も同じだったが、ローマ人はもっと身だしなみに気を遣い、こと衛生状態のこととなるとハードルを高くしたのだ。)「洗ってある」「風呂上がりの」にあたるラテン語は《lautus(ラウトゥス)》だが、この言葉の用法は広がって、上品な人、偉大な人、あるいは優美な人を形容するまでになった。そして毎日の入浴が人々のスケジュールにしっかり組み込まれれば組み込まれるほど、清潔は、ローマ人のありようになってゆき、ローマの美徳になっていった。
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<カラカラ帝浴場>(216〜17年)と<ディオクレティアヌス帝浴場>(298〜306年)の2大浴場は、ローマの驚異として知られ、どちらの最後の名残りも、全盛期の偉容をいまに伝えている。16世紀に教皇パウルス3世が、自分のファルネーゼ宮殿を飾ろうと<カラカラ帝浴場>を探したとき、大理石やメダル、ブロンズ彫刻、レリーフといった収穫品で博物館ができるほどだった(ファルネーゼ・コレクションは、現在はほとんどナポリ国立考古学博物館に収蔵されている)。20世紀になって、遺跡のうち温浴室だけを利用して、ヴェルディのオペラ『アイーダ』が上演されたが、歌手やオーケストラと観客はもとより、戦車、馬、ラクダなどを収容できるだけの規模があった。さらに圧巻なのはディオクレティアヌスの《テルマエ》で、3000人の客が湯呑みができたと見積もられている。1561年にはミケランジェロが水浴室を改築し、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の身廊部にした。ディオクレティアヌスの《テルマエ》の残りの部分は、現在はローマ国立博物館とサン・ベルナルド礼拝堂になっている。