じじぃの「科学・芸術_281_大正期に花開いた自由教育」

成城学園創立者 澤柳政太郎「日本近代教育の基礎を築いた教育家」(ダイジェスト) 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=Jm66w3r8Th0

ドラマ「トットちゃん!」黒柳徹子の人生 松下奈緒山本耕史、豊嶋花 2017年9月9日 あらすじ大全
テレビ朝日が2017年春から新設したシニア層向けの昼の帯ドラマ劇場の第2弾、10月2日からの毎週平日では黒柳徹子の人生を描きます。
アパート「乃木坂上倶楽部」での家族の生活も短く、父親は戦争のため満州に送られてしまう。
個性豊かな乃木坂上倶楽部の住人たち、トットちゃんの最大の理解者の学園の校長先生。トットちゃんはいろんな人に支えながら激動の昭和の時代を生き抜いていく。
https://arasuzitaizen.com/2017/06/11/totto/
『教科書が教えない歴史(3)』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1997年発行
大正期に花開いた「自由教育」 より
次の作文は、大正時代のある小学校6年生が書いたものです。
 「僕の学校
                 杉 正男
  僕の学校は児童の村小学校である。名の通り、ちょうど村のように皆が仲良く生活していく。学校の設備というような物は1つも整っていないが、皆で働いて作った。池や畠や鳩の小屋などがある。それらを造る時の気分はとても愉快だ。みんな泥だらけになって働く。僕の学校は労働という事を大切にしている。叉、その他の事でも、余り先生の御厄介にならず、出来るだけ自治でやって行く。そしてこの学校位先生と児童の親しい所はないと思う」(宇佐美承『椎の木学校・「児童の村」物語』新潮社)
この子供の作品に出てくる『児童の村』小学校は野口援太郎により1924年大正13年)に東京の池袋に創立されました。黒柳徹子さんの著書『窓ぎわのトットちゃん』に出て来るトモエ学園も、この「児童の村」が元祖に当ります。
当時は、世界的に新しい教育思想が広まった時代でした。わが国でも大学などの附属小学校を中心に、さまざまな新しい教育実践が試みられていました。こうした新しい教育の試みは子供の個性や自発性、能動性を尊重しようとするもので、「大正自由教育」と呼ばれたのです。
附属小学校だけではなく、新しい教育をめざす私立学校がいくつも誕生しました。「児童の村」のほかに、沢柳政太郎が設立した成城学園羽仁もと子自由学園西村伊作文化学院、赤井米吉の明星小学校、小原国芳の玉川学園などです。こうして生まれた多くの学校の中で「児童の村」が大正自由教育の精神をもっとも純粋に追求したといわれています。
さて、この「児童の村」の子供たちはどんな勉強をしていたのでしょうか。
まず、子供たちはどの先生の、どの教室へ行って勉強してもよいというルールになっていたようです。また、子供たちの興味・関心を第1に考えて学習を進めていました。例えば、世界一周してきたおじさんから外国の話を聞いて地理のとりこになった子は、中学の地理の教科書をすみすみまで読みます。4年生のある子は、機械を組み立てたり壊したりばかりしているうちにラジオの雑誌を読み始め、ラジオを組み立てたりしています。
上級生は一人ひとりひと月の予定表を作り、好きな順番に好きなペースで勉強する独自学習なども行われていました。ひとまず、自分で調べてノートを作り、その後、先生と勉強して復習するのです。菜園づくりや動物の飼育、工作などの「作業」も重視されていました。こうした「児童の村」の実践は、今日の学校教育から見ても学びことの多いものです。何よりも子供たちが個性を発揮し、生き生きと学習しているからです。
しかし同時に、「児童の村」の中にも「自由」の中身について悩んだ教師たちがいたことも忘れてはなりません。中心的な教師であった野村芳兵衛は、よその家を訪問したらノックをする、靴をきちんとそろえるなどのしつけ教育も重視するようになったという事実もあります。
この「児童の村」は教師集団内部の教育観やイデオロギーの対立、経営不振などの理由によって1936年(昭和11年)に廃校となってしまいました。