じじぃの「人の生きざま_749_竹田・圭吾(ジャーナリスト)」

【速報】竹田圭吾さんの遺稿、未完のまま「文芸春秋」に掲載 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YlJPAt1RTAI
竹田圭吾 (kukkuri.jpn.org HPより)

竹田圭吾さんの妻・裕子さんが手記を発表 最期の日の様子を明かす デイリー新潮
2016年1月10日ジャーナリスト竹田圭吾氏が51歳の若さで亡くなった。竹田さんは2001年から2010年まで『ニューズウィーク日本版』編集長を務め、近年ではテレビ番組のコメンテーターとしても活躍した。
竹田さんの妻・裕子さんが「新潮45 3月号」に手記を発表し、竹田さん最期の日々を綴ったその感動的な内容が話題となっている。
http://www.dailyshincho.jp/article/2016/03021600/?all=1
Mr.サンデー 2015年4月12日 フジテレビ
【司会】宮根誠司椿原慶子 【コメンテーター】木村太郎竹田圭吾ヤマザキマリ
▽世界で物議かもす衝撃ニューススペシャル!
衝撃映像サイト「ライブリーク(Live Leak)」には物議をかもす映像があふれている。
先月、墜落したドイツ旅客機・ジャーマンウィングス機墜落直前の音声がLive Leakで紹介された。
アメリカ兵が、タリバン兵の遺体を的に立ち小便をしている映像。
イスラム国」の人質処刑の写真が流れる。
竹田圭吾、「衝撃映像は人間を馬鹿にする。イスラム国の映像だけ流さないのはダブルスタンダード(不公平に適用されること)ではないか」
http://www.fujitv.co.jp/mrsunday/index.html
『一〇〇万回言っても、言い足りないけど ジャーナリスト竹田圭吾を見送って』 竹田裕子/著 新潮社 2016年発行
竹田圭吾流」コメントの誕生 より
テレビに出始めのころは、出演日前夜のニュースと、当日早朝のニュースを念入りにチェックしていた。
テレビをつけパソコンを膝に置き、疑問に持ったりわからないことが出てきたりすると、すぐパソコンのキーボードをうちが踏める。自分が知らない、わからないことをしたり顔で話すのは失礼だという責任感からだった。
慣れるに従い早朝のニュースをじっくり見ることはなくなったが、その分さらに大量の本を読むようになった。歴史、地理、政治、経済、宗教、哲学、科学、必要と思うものをどんどん読んでいた。
以前は圧倒的に多かった小説を読む姿はめっきり見かけなくなった。
朝刊は6時すぎにならないと届かないので、迎えのハイヤーに乗る前に郵便受けから直接取って、テレビ局に出かけて行った。
せっかくお声をかけていただいたのだからなんとか番組に貢献したいという思いと、もともとのへそ曲がりな性格(視野が広いから多角度から見ているからだと、本人には言われそうだけど)の相乗効果で、「竹田圭吾流」ともいえるコメントが生まれたように思う。自身の著書『コメントする力』で書いているとおり、「距離を置いて情報と接すること」「他の人とは同じことは絶対に言わないこと」、この2つの方針に基づいたコメントだ。
「ニュースメディアは世の中の空気の温度を調整する”エアコン”であるべき」
経験を積むにつれてジャーナリストとしての使命感のようなものが強くなり、自分の早やすべき役割を深く考えるようになっていった。それが、この持論にもなったのだろう。
私を含め日々の生活で精いっぱいの人たちにも「世間ではこんなことが起きているよ、みんなで考えてみようよ」という提案をし続けていたのだと思う。
例えば原発。沖縄。アメリカ大統領選挙。テロ事件……。
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子どもたちがまだ小さかったころ、ご厚意で「とくダネ!」のスタジオ見学をさせていただいたことがある。
「いつも主人がお世話になっております。気難しくて申し訳ありません」
「いえ、とんでもない。スタッフみんな竹田さんのファンですよ」
案内してくださったスタッフの方にそう言われて、とても驚いた。
「それどこだよ」と突っ込みたくなるような国や地域も取り上げるテレビ東京「未来世紀ジバング」では、ずいぶん勉強をさせてもらっていたし、鍛えてもらってもいた。
取り上げる場所が決まるとさっそく資料を集める。たまに子どもたちに「○○ってところ知ってる?」などと訊いて”市場調査”していたが、そういえば私は一度も訊かれたことがない。普段のテレビの仕事の中で唯一の収録番組だったので、結構思い切ったことも話していたようだ。自分でもいい過ぎたなと思った発言は編集されていたと話すこともあった。
「竹田さんからはスタッフにいい緊張を与えてもらっていました」
亡くなった後、「ジバング」のプロデューサーさんからお褒め(?)のお言葉をいただいた。
また、フジテレビ「Mr.サンデー」のスタッフの方はこう言ってくださった。
「竹田さんの追悼コーナーで、誰もいないセットの中、竹田さんがいつも座っていたイスだけに照明をあてるというカットを撮影しました。すぐに終わると思っていたら、スタッフがそれぞれああしたほうがいい、こうしたいと言い出し、結局1時間もかかりました。みんなそれだけ竹田さんへの思いがあるんですよね」