じじぃの「科学・芸術_184_ポルトガル・文筆家のモラエス」

モラエス館 - 地域情報動画サイト 街ログ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=0Tk4ukhkZ-M
モラエスとおヨネ

モラエスの生家の外壁にあるタイル張り

ポルトガル/キーワードはサウダーデ
ポルトガル関係の資料を見ていると必ずサウダーデということばが出てくる。
このことばの意味を理解しないとポルトガルを理解できないのではないか。ということでサウダーデを探ってみたら...
http://www.ne.jp/asahi/fuse/abraham/europe/europe-south/portugal/po-saudade/po-saudade.htm
ポルトガルを知るための55章【第2版】』 村上義和、池俊介/編著 赤石書店 2011年発行
ヴェンセスラウ・デ・モラエス 日本とポルトガルをつなぐ作家 (一部抜粋しています)
ポルトガル人の日本観は20世紀を通じてモラエスの《日本》の影響を強く受けており、ポルトガルで日本を語るとき必ず言及されるのが彼の名前である。日葡文化交流における彼の存在はまことに重要である。
ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・デ・ソーザ・モラエスは、1854年リスボンで生まれた陸軍士官。彼の生家はリスボンの中心地ロッシオ広場近く、カルサーダ・ド・ラブラをのぼりつめた高台に現在なお建っており、日本人の観光スポットになっている。
海軍兵学校を卒業後に数回のモザンビーク勤務ののちにマカオに転属したモラエスが、マカオ政庁を代表して武器購入のために短期滞日を繰り返したすえに神戸領事として日本に定住したのは1899(明治32)年のことである。彼の武器調達の目的は、当時ポルトガル植民地であったティモール(現在の東ティモール)の先住民鎮撫にあった。モラエスは後年、かつて日本に鉄砲を伝えたポルトガル人が数世紀後に日本から武器を買い入れることになった歴史の皮肉を自嘲を込めて語っているが、現代の日本人にとって興味深いのは、日本製兵器が100年余前にポルトガルティモール支配強化に力を貸していた事実ではなかろうか。
少年のころから文学好きであった彼は、東洋に来て、はじめて自分の性向にかなった素材とジャンルを見いだす。マカオ時代にリスボンの新聞に発表した東洋印象記をまとめた『極東遊記』(1895)の中に日本についての1編が含まれていたことが第2作『大日本』(1897)出版のきっかけとなり、その『大日本』が彼の文名を不動のものとする。この事実がマカオの人事問題への不満が爆発したとき、彼はただちに神戸領事就任運動への道をとらせることになった。マカオでモラエスは亜珍を愛人とし、両人の間には2人の息子が生まれていた。だが彼は、母子をマカオに遺して神戸に赴任。神戸では芸者福本ヨネを落籍して同棲する。彼は領事就任の3年ほど前から実質的には日本に滞在し続けていたらしく、ヨネとのかかわりは相当以前から始まっていたものと推測される。ヨネは病身ではあったが優しく美しく、彼女と過ごした神戸時代がモラエスにとっては生涯で最も幸福な時代であった。
神戸領事を務めていた14年間、彼は様々な日本紹介文を故国の新聞や雑誌に寄稿する。日清、日露の戦役で勝利した日本についての生の情報をポルトガル人に伝えることのできる同国人はモラエスをおいてほかにいなかった。作家としての彼の成功の一因は日本というタイムリーなテーマを得たところにあった。神戸時代の文筆活動は、のちに『日本通信』として数シリーズにまとめられ刊本となった新聞寄稿に集約されるが、ほかに自家本『茶の湯』(1905)や、後年『日本夜話』(1926)としてまとめられる随筆などがある。
その彼が、1913(大正2)年6月、突如領事を辞任し、ポルトガル海軍中佐の軍籍を返上し、年金その他のすべての権利を捨てて徳島に隠棲して知友を驚かせる。モラエスは神経過敏で孤独を好み、健康についてのオブセッションが強く、絶えず自己の存在価値を疑い、しばしば死を願い、要するに今でいうところの神経症に若いころより悩まされていた。彼の徳島隠棲の背後にはそのような事情が働いていたように、私は思う。徳島は1912年に亡くなった愛人ヨネの郷里であり、ここで彼はヨネの姪で、40歳も年下のコハルと4軒長屋の一角に同棲する。コハルは3年後に肺結核で死亡するが、モラエスはそののちもなお徳島にとどまり、帰国の意思も神戸移住の意思もなく、孤独のうちにひたすら徳島で朽ち果てることを望んだ。自宅で変死体となって発見されたのは、1929(昭和4)年7月1日、徳島在住16年後、享年75歳であった。
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ポルトガルにおいてモラエスと日本との一体化がシンボルや神話にまで高められにいたった原因は、東洋で彼が過ごした謎に満ちた半生にある。とりわけ神戸領事辞任後の徳島隠棲、ポルトガル人社会を拒否して祖国に決して帰ろうとしなかったこと、遺書の中で自分の遺体を火葬に付すよう求めていたことなどは、ポルトガル人の理解を超えていた。多くの作品を残しているにもかかわらず、作品に自分の生い立ちや私生活にはほとんど触れていないことも《不可解なモラエス》像を作りあげることに寄与し、魅力的な女性の国、はるかな東洋の日本とあいまってポルトガル人の想像力をかきたてることになった。