じじぃの「科学・芸術_174_スイス・アルプスの少女ハイジ」

HEIDI | Trailer | Deutsch | Ab jetzt als DVD, Blu-ray & Digital! 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QQA8dczTSEA
Heidi Full Animation 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RkdKGRkivP0
Johanna Spyri

なんで「アルプスの少女アデレード」はヒットしなかったんですかね?? 2010/4/13 Yahoo!知恵袋
スイス人女性作家ヨハンナ・シュピリ1880年に書いた小説「ハイジ」が、その50年前にドイツ人作家が書いた別の作品によく似ていると若手文学研究者が指摘、スイスメディアは、「ハイジの“父親”はドイツ人だった」などと大きく報じている。
回答
アルプスの少女ハイジがヒットしたのは日本だけとTVで聞いたことがある。
現地のひとにハイジの格好をしても奇異な目でみられてた。
ただあまりにも日本人がスイスで「ハイジ!ハイジ!」と連呼するので、定着しつつあるのだとか。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039426805
アルプスの少女ハイジ』が実写映画化!ストーリーは日本アニメ版をベースに作成! 2015/12/9 BUZZNET
原作はヨハンナ・スピリの小説『アルプスの少女ハイジ』なのですが、日本ではテレビアニメ版が有名で、高畑勲宮崎駿たちが現地にロケーションで約一年間過ごした。
http://buzz-netnews.com/heidi_2015
スイスを代表する作家、ヨハンナ・シュピリの世界(前編) 2013/11/17 スイス情報.com
ヨハンナ・シュピリ1827年6月12日、医者であった父と作家であった母の間、6人兄弟の番目として生まれました。
1852年、弁護士であった夫と結婚するまで、彼女はここHirzelでハイジと同様美しい自然の中、のびのびと暮らしたようです。
彼女が初めて執筆活動を行ったのは44歳の頃。
その9年後である53歳の時にその後何年も世界中で愛されることとなる『アルプスの少女ハイジ』が出版されました。
http://4travel.jp/travelogue/10851044
『スイスを知るための60章』 スイス文学研究会 赤石書店 2014年発行
ヨハンナ・シュピリ 『ハイジ』の作家の生涯 (一部抜粋しています)
1852年、25歳の時にヨハンナは兄の友人だった法律家のヨハン・ベルンハルト・シュピリと結婚、チューリヒで暮らし始める。結婚の3年後には一人息子のベルンハルト・ディートヘルムが誕生した。夫は初め弁護士や新聞の編集者として働いていたが、後に、市の書記を務めるようになる。一見幸福な生活に包まれていたかのように見えるが、知人に宛てた手紙からは、のどかな村の生活から町の生活へ変わり、なじめないでいる様子や、子育てにも喜びを見出せず、夫は仕事に忙しすぎて家庭での時間がないので、疎外感や孤独感を感じている様子が窺える。
そもそもシュピリの伝記の数は決して多くはない。1番大きな理由は本人が伝記というものに懐疑的であり、個人的な資料を破棄してしまっていることである。自分の手元にあったものを処分したけではなく、自分が送った手紙まで送り返してくれるように知人に依頼している。さらに「女性の伝記」というものに、シュピリの生きた時代が関心を示さなかったこと、その後フェミニズムの時代に入って陽の目が当たるようになったときには、シュピリはすでに「時代遅れ」と見なされたということも理由の1つである。そういう状況の中でシュピリ像は、物語の主人公のイメージと重ね合わされたり、親族によって家庭的な面が誇張されすぎたり、必ずしも正確な姿が伝えられているとは言えなかった。しかし新たな資料が出たことをきっかけとして、1980年代以降にシュピリ像が再構築されるようになった。
シュピリの処女作は『フローニーの墓上の一葉』という作品だが、これは母の知人だったブレーメンの牧師に頼まれて書いた短編で、1871年、44歳の時に匿名で出版された。当時のドイツ文学界は男性中心で、女性が書くものは娯楽・通俗小説であり、まともな文学とは見なされないという傾向があったため、この偏見を避けようと男性の名前や匿名で作品を発表する女性作家が普通だったのだ。シュピリは、この作品が好評を博して増刷されたことで、作家としての基礎を築くことになった。1872年および73年にはブレーメンの読者に向けて全部で4つの物語を書き、それが出版社を経営していたエーミール・ペルテスの目にとまり、最初の児童文学『故郷を失って』が1878年に出され、さらに『ハイジ』の出版につながった。シュピリの代表作『ハイジ』は52歳の時、1879年の12月(出版は翌年の日付)に『ハイジの修行時代と遍歴時代』というタイトルで、やはり匿名で発表された。しかしかれが大成功を収め、1881年に第2版が増刷されたときにようやく実名を載せることができた。さらに同年、続編となる『ハイジ、学んだことを生かす』を出し、その後も毎年少なくとも1つは作品を発表し、文学的には実り多い時代を迎える。
その一方、家庭生活では悲しみが続き、1884年に療養中だった息子が結核で亡くなり、同じ年に夫も肺炎で死亡する。当初の孤独と悲しみから立ち直ったシュピリは収入も十分あったのでたびたび旅行をし、1901年7月7日に74才で永眠するまで意欲的な創作活動を続け、全部で48の物語を構成に遺した。シュピリが故郷ヒルツェルで通った学校が現在ではヨハンナ・シュピリ記念館となっており、チューリヒで晩年住んでいた建物には2002年までは、彼女の作品(翻訳されたものを含む)、写真類や資料などを保存するヨハンナ・シュピリ文書館が入っていた(現在はスイス青少年メディア研究所の1部門として別の場所に移動)。