じじぃの「人の生きざま_728_ジミー・カーター(第39代米国大統領)」

Jimmy Carter: "I Could Have Wiped Iran Off The Map" | CNBC Meets | CNBC International 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-6Rt1a1xII8
Georgia Guidestones And Obama March 22 Illuminati Freemason Symbolism. 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=A2EN7_-Pcf0
Georgia Guidestones

日本人だけが知らないワールド謎ベンチャー 2016年3月31日 TBS
【MC】船越英一郎渡部建 【ゲスト】キムラ緑子瀬戸康史平愛梨豊田エリー澤部佑
“日本人だけが知らない”世界の謎を現地潜入取材!人類史上最大級の軍事演習ジェイド・ヘルム!米国の恐るべき陰謀。
●日本のテレビ初取材! ジョージア・ガイドストーン
ジョージア・ガイドストーン」という石碑に刻まれていた「人類は5億人以下を維持する」という言葉。
1980年に建設され、ジミー・カーター大統領も関与したとされる。単なる石碑ではなく、政治的意図が秘められているという。
岩のそれぞれの面に8言語が刻まれ、近代国家の指針が書かれている。しかし1番上には大自然と永遠に共存し人類は5億人以下を維持すると書かれている。
http://www.tbs.co.jp/worldnazoventure/
アメリカ人の歴史Ⅲ』 ポール・ジョンソン/著、別宮貞徳/訳 共同通信社 2002年発行
カーターの無分別な冒険 (一部抜粋しています)
東南アジアに手も足も出せないフォードは、1976年の選挙で勝つのに役立つような何らかの成果をどうしてもあげたくて、72年にニクソンキッシンジャーがソヴィエトの独裁者レオニード・ブレジネフと協力して始めた戦略兵器制限交渉(SALTI)を生き返らせようと懸命になった。ニクソンは用心深くこれを「条約」ではなく「交渉」と呼んでいたのである。SALTIは、攻撃用の大陸間弾道ミサイルと攻撃用の対弾道ミサイルの数量削減にソ連アメリカが首尾よく合意し、上院は88対2で承認した。
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強くて有能な大統領を葬り去った民主党は、そのかわりとして立てるべき優秀な人材を選べなかった。というよりも、全然いなかったのである。1970年代の後半には、驚くにあたらないことだが、ワシントンの内部の人間は概してあまり評価されなかった。それを背景にして、民主党の「外部の人間」として、ジョージア州知事のジミー・カーター(1924 - )が選ばれる。ピーナッツ農場を相続して順調に経営していた(といわれる)が、カーターの売り文句は、公民権運動を――多少なりとも――容認し、我慢して受け入れることを学んだ南部の穏健な政治家たちの新世代の代表、というものだった。「ジミー」と呼ばれるのを好み、笑顔がすばらしく、数え切れないほど繰り返したスローガンは「私はみなさんに決して嘘をつかない」。
実は、カーターは、アトランタのやりて広告業者ジュラルド・ラフシェーンの手により売り出されたのである。ラフシェーンは「ジミー」をみがきたてて、役に立たない呑んだくれの弟とか、勝気な妻ロザリンの猛烈な野心といった不都合な部分は切り捨てた。反フォードが多数を占めていた票は、選挙戦の間に次第に反カーターに傾いていく。あと2週間あれば、フォードは自分自身の力で大統領の地位を勝ち取ることができただろう。しかし実際にはカーターが、一般投票では4082万8587票対3914万7613票、獲得選挙人数では297対241で、かろうじて大統領職を射止める。おそらくは史上最弱の現職を相手に、カーターは僅差で大統領職を勝ち取り、さらに弱い大統領となる。議会が民主党多数という事実も関係なかったようで、国外におけるアメリカの退潮はさらにつづいた。
カーターは実際には、善意の、しかし無分別な冒険によりアメリカの弱点をふやした。そのひとつが「人権」政策で、ヘルシンキ合意にもとづき、調印国は世界中で起こっている人権侵害をやめさせる義務を負うことになった。カーターのねらいはソ連国内を自由化させ、とりわけ政治犯の精神病院監禁を廃止させることにあった。しかし、結果はまったく裏腹。ソ連および衛星国の内側では、ヘルシンキ合意は無視され、協定の履行を監視するためにもうけられたグループは解散させられ、メンバーが逮捕された。
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1978年には、国務省の人権局が、これも長年の盟友だったイラン国王の弱体化に積極的に関与した。その親米政権は、1979年に結集した大群衆によって転覆され、とって代わったイスラム原理主義テロリスト政権は、あっというまにひどい人権侵害を積み上げて空前の記録をつくり、アメリカを「大悪魔」と呼んだ。1980年1月20日、イランにおける地位を回復しようとして、カーターは「カーター・ドクトリン」と呼ばれることを望んだ主張を公式に宣言する。ペルシャ湾の石油備蓄にアメリカは非常に関心を持っており、この地球を外部(すなわちソ連)の支配から防護するための軍事介入は正当化される、という主張だった。この宣言は議会に承認されて、1990年8月にイラククウェートに侵入したとき、ブッシュ大統領のもとで役に立つことになる。しかし当時、カーター政権がこの地域で軍事力を行使しようとしたのは、1980年4月、イラン政府に人質として拘束されたアメリカ人を救出するための無謀なヘリコプター作戦一度きりで、これは面目まるつぶれの失敗に終わった。