じじぃの「科学・芸術_88_八つ墓村(津山三十人殺し)」

八つ墓村】 1977年・松竹 全予告篇 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=vR4GqMrKgUY
[日本史上最悪]津山30人殺し事件、映画八つ墓村のモデル1-2※閲覧注意 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=zyphqLSA_yQ
事件を伝える新聞

『映画になった戦慄の実話―真相はそうだったのか!』 鉄人ノンフィクション編集部/編 鉄人社 2011年発行
八つ墓村」で有名な戦前の大事件 日本犯罪史上最悪の大殺戮 津山三十人殺し (一部抜粋しています)
日本を代表するミステリ作家、横溝正史が1949年に刊行した「八つ墓村」は、岡山県の村を舞台にした大量殺人を描く推理小説だ。猟銃と日本刀を持った犯人が殺戮の限りを尽くすショックシーンが話題をさらい、現在までに3本の映画と6本のテレビドラマが作られた。
題材となったのは、日本犯罪史上に名を残す、かの『津山三十人殺し』である。
八つ墓村」は、22年の岡山県で旧家、田治見家の当主が発狂し、32人の村人をなぶり殺すシーンから始まる。
一方、現実の事件は、38年に岡山県津山市から北へ18キロの田舎村で起きた。犯人の名は都井睦雄(当時22才)。平凡な農家の長男に生まれた彼は、2才のころに両親を病気で亡くし、父方の祖母の元へ引き取られる。
性格は真面目で、学校の成績も抜群。小中学校では学級長に選ばれたほどの優等生だったが、生まれつき体が弱かったため、1年の半分以上は自宅療養を余儀なくされた。
病状は悪化を続け、16の夏には胸膜炎を発症。さらに20才で結核にかかり、徴兵検査に落とされてしまう。
兵役の義務を尽くさず、日がな家でブラつくだけの睦雄に、村人たちは冷淡だった。仲の良かった友人からは「お国のために働かない怠け者」と蔑まれ、数年来の恋人からも「一緒にいるのが恥ずかしい」と三下り半を叩きつけられた。
あまりの屈辱に睦雄は怒り狂い、やがて周囲に「どうせ肺病で死ぬんじゃから、阿部定以上のどえらいことをやってやる」と漏らすようになっていく。
徴兵検査から2年後、祖母に黙って田畑を売り払い、大坂と神戸の鉄砲店で大量の猟銃と日本刀を購入。集めた凶器は、すべて屋根裏に隠した。
38年5月20日の深夜。手始めに村の送電線を切断した睦雄が、身支度に取りかかる。
全身を黒い学生服につつみ、足にはゲートルと地下足袋。手ぬぐいのハチマキを頭に巻き、その両側に懐中電灯をくくりつけた。77年の映画「八つ墓村」で、山崎努が演じた犯人とほぼ同じ姿だ。
惨劇は午前2時に始まった。まずは就寝中の祖母の頭をオノで落とし、続いて隣宅へ侵入。老婆の口へ日本刀を突き立て、両脇の子ども2人をメッタ刺しにした。
2軒目からは猟銃を使い、ダムダム弾で一気に10数名の内臓を粉々に。にわかに鳴り響いた銃声と悲鳴に、住民たちは大パニックに陥る。
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凶行を終えると、睦雄は山奥へ逃げ込み、長い遺書をしたためた。
 『病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、(中略)実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう。実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう』
冷たかった世間を延々と呪った後、睦雄は『もはや夜明けも近づいた、死にましょう』と末尾に記し、猟銃で自分の心臓を撃ち抜いた。
被害者の数は、死者30人に重軽傷者が3人、日本の犯罪史上、一夜のうちにこれだけの人間が殺された例は他にない。