じじぃの「科学・芸術_34_ヒトラーの才能」

Adolf Hitler 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yf6_zKLbykQ
Drawing of a house, in 1910, attributed to Adolf Hitler

中田歴史塾 2016年9月11日 テレビ朝日
オリエンタルラジオ中田敦彦が、楽しくて、タメになる歴史の授業を展開する、『中田歴史塾』。
【講師】中田敦彦 【生徒】若林正恭(オードリー)、吉村崇(平成ノブシコブシ)、あき竹城、高橋英樹高山一実乃木坂46)、西村真二ラフレクラン)、前園真聖真野恵里菜
1時間目の「二度と独裁者に戦争を起こさせないための歴史学」では、ドイツが生んだ“史上最悪の独裁者・ヒトラー”の人生を紐解きながら、戦争を起こした独裁者になるまでの背景を、オリラジ中田先生が独自の視点で解説。
中田先生、「中学を留年するほどの落ちこぼれ。ついには成績が悪すぎて退学。得意なジャンルは勉強ではないと、画家を目指し美術学校を目指すも不合格。そして二度目の不合格。ヒトラーは身を隠し、ホームレスとなった」
第一次世界大戦が勃発。ヒトラーは兵士として戦争へ向かうも、ドイツは敗戦。
軍の調査命令でヒトラーが出向いたのがナチ党だった。
中田先生、「お前、演説が面白いじゃないかと。ナチ党のドレクスラーに入党を勧められる。初めて人にものすごく褒められた。今までいいことありました? ないですよね」
http://www.tv-asahi.co.jp/nakatajuku/
ヒトラーと哲学者』 イヴォンヌ・シェラット/著、三ツ木道夫、大久保友博/訳 白水社 2015年発行
ヒトラー――「天才的バーテンダー (一部抜粋しています)
少年時代にはすでに、暴力は建設的なものだとヒトラーは信じていた。それこそが積極的な性格を育む力があるのだと、常に考えていたのだ。「当時すでに私の弁舌の才は、わたしの友人との多少とも暴力的な弁論の中で訓練されたと思う」。
ヒトラーには、この環境を乗り越えた、辛苦から育った強い人間であるという自負があった。あまりにも困難な人生で、弱い者であったら野垂れ死んでいたところを<自分>は人生最初の試練に合格したのだと。一息ついて自分の独房を見回すと、その刹那、理不尽な思い出が一挙に甦ってくる。喉元に苦いものがこみ上げ、それとともに幼年時代、自分の偉大さを見誤った人々みなの顔が思い出される……苦難を乗り越えることと、無視に耐えることはまったく別物だ。バッサウ、ムラバッハ、レオンディング、リンツといったオーストラリアやドイツの都市で過ごした小学生時分には、まだ物事がうまく回っていた。当初は才能を認められ――通っていた学校からも優の評点をもらえた。だがその後、リンツの中等学校(実科学校)の1年次には落第させられる。ところが炯眼の彼は、16になる頃には、教育を担う(小役人)風情には自分のような特異な存在は手に余るのだ、と決めつけ、何の資格も得ずに退校してしまう。
1905年以降のウィーンに居を移したヒトラーは、ふらふらした生活を送りながら、愛情深い母(父は1903年没)からの仕送りで何とか暮らしていた。このとき美術アカデミーを志望するが「絵画には不適格」と二度不合格になっている。代わりに建築分野には才があると言われた」ことを思い出し、その見識の正しさに感激する一方で、自分の画才を見抜けぬとはなんと凡庸な、と憤るのであった。
束の間の怒りから我に返ると、ヒトラーは身の上話をなおも書き出しながら、次に述べるのはもっと幸せな主題にしようと考える――つまり民族の誇りだ。ここで彼はヘスといっしょになって、プライドと知識をほのめかし合う、10代半ばに差しかかろうという頃、彼は普仏戦争(1870〜71)に関する父の蔵書を読んで、ふと疑問を抱いていたのだ。なぜ父をはじめドイツ系オーストリア人はこの戦中、ゲルマン民族のために戦うという責を果さなかったのか、と。