じじぃの「人の死にざま_1721_カーチス・ルメイ(アメリカの軍人・無差別攻撃)」

B29 Superfortress in Action Over Japan 1945 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DImU7LLbBtM
無差別爆撃を命令したルメイ大将 (angel.ap.teacup.com HPより)

日本焦土化作戦の立案者 カーチス・ルメイに対する海外の反応 2011年05月18日 スパチカねんね (海外の反応)
アメリカ31歳
こいつは最低のクソ野郎。
ヒトラースターリンと同じ類の大量殺戮者だ。
ルメイはたいした理由も無しに何十万もの罪の無い日本の民間人を殺したんだよ。
マクナマラでさえ、アメリカが負けていたらルメイは戦争犯罪人として裁かれると言ってたしな。
●通りすがり
最も効果的且つ味方の損害を最小限にする戦術だったのは事実。
だがしかし、日本の焼夷弾による無差別爆撃と原爆投下、ベトナムにおいての枯れ葉剤散布はエスカレーションする究極の戦争形態がどのような手段となって具現化するのかを彷彿とさせるので、あまり気分の良いものじゃないし、戦争倫理の瀬戸際に位置する行いだろうね。
http://blog.livedoor.jp/supachikanenne/archives/51749772.html
カーチス・ルメイ ウィキペディアWikipedia) より
カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日 - 1990年10月1日)は、アメリカ合衆国の軍人である。最終階級は空軍大将。第5代空軍参謀総長を務めた。
【対日戦】
日本本土爆撃に関して、ルメイは人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し現場で効果的な戦術を考案し実行した責任がある。しかし爆撃は航空軍司令官ヘンリー・アーノルドに命じられた任務であり、ルメイの役割が誇大に語られる傾向がある。ルメイの就任でB-29の攻撃法が夜間中心に変わったが、都市爆撃の枠組みは、統合参謀本部の決定、焼夷弾攻撃の準備、東京や名古屋でのハンセルによる無差別爆撃の試行などルメイ就任前から進められていた。
1964年12月7日、勲一等旭日大綬章を入間基地で浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対し批判も大きい。当時、社会党原水爆禁止団体、被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。
勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、昭和天皇は親授しなかった。後年『NHK特集 東京大空襲』(1978年3月9日 初回放送)でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイはその勲章を見せた。

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オリバー・ストーンの告発 語られなかったアメリカ史 (2)』 オリバー・ストーン&ピーター・カズニック/著、鳥見真生/訳  あすなろ書房 2016年発行
虫けらのように忌み嫌われていた日本人 (一部抜粋しています)
日本への原爆投下決定について理解するには、その決定を支持したアメリカ人の心情を知る必要がある。アメリカの戦時プロパガンダでは、邪悪なナチス指導者と、一般の「善良なドイツ人」とは慎重に区別されていた。しかし、邪悪な日本人指導者と”善良な日本人”とはまったく区別されていなかったのだ。
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アメリカ人の道徳観には何が起こったのだろう? いつからアメリカ人は、人の苦しみ、そして、大量の民間人を殺傷することに鈍感になっていったのだろうか?
突然、道徳観が変わったわけではない。アメリカ人のモラルは、敵国の一般市民に対する長年の空爆、とくに日本に対する空爆で劇的に低下したのだ。最初の都市攻撃は、第一次世界大戦中に断行された。ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、オーストリアが、互いに敵国の年を爆撃したのだ。2つの世界大戦をつなぐ20年の戦間期にも、残虐になされた例がある。
この点、1937年に日本軍が行なった上海ほか中国諸都市への空爆に対し、アメリカが強く抗議したことは賞賛できる。またヨーロッパで戦争が勃発した時、ローズヴェルトは、非武装の民間人に対するものをふくめ、「非人道的で野蛮な攻撃」はひかえるように、と交戦諸国に呼びかけている。
しかし戦争が長引くにつれて、アメリカ人の道徳レベルは落ちはじめる。ドイツとイギリスは相手国の都市部を爆撃し合い、きわめて多数の民間人を殺傷していたが、総じてアメリカは、主要な差bb業施設や交通網をねらう精密爆撃に限定していた。その方針が変わりはじめたのは、1943年10月の、ドイツのミュンスターへの絨毯爆撃からだった。1945年2月には、アメリカ軍はイギリス軍とともに、ドイツ本土空爆の中でも最大で、もっとも残忍なドレスデン爆撃を行っている。
その成果から、アメリカは日本に対し、さらに無慈悲な戦略爆撃を採用することになる。第21爆撃軍司令部司令官ヘイウッド・ハンセル准将が、大都市部への焼夷弾使用に抵抗したため、代わりに、はるかに血気盛んな少将カーチィス・ルメイが送りこまれてきた。
ルメイのあだ名は頑固者を意味する「鉄のロバ」。あまりにも冷酷で、きつい要求を押しつけてくるからだ。彼はヨーロッパでの空襲で名をあげてきた。そして、それまでの爆撃戦術に革命を起こし、すでに「恐怖爆撃」と呼ばれる絨毯爆撃を、日本において、はるかに残虐な「無差別爆撃」へと変容させたのである。
1945年3月9日から10日にかけての夜間、ルメイは、ナパーム、テルミット、黄リン、その他可燃物質からなる焼夷弾を搭載したB-29爆撃機334機を、東京に送り出した。ナパームはゼリー状の物質で、何にでも、たとえば人の皮膚にもはりつき、900度から1300度の高温で、最長で15分間燃えつづける。
史上最大規模の空襲と言われた東京大空襲では、約41平方キロメートルにおよぶ市街地が破壊され、10万人以上が死亡し、それ以上の負傷者が出た。街は灼熱地獄と化し、水路の水は煮え立ち、金属類は溶け、人々は火災に包まれると同時に焼失した。ルメイは、犠牲者は「黒こげになり、蒸発し、からからになって焼死した」と報告した。