じじぃの「人の死にざま_1714_久保田・豊(実業家・水豊ダム)」

水豊ダム

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●水豊ダム
これは戦争中に完成した東洋最大のダムで、今なお北朝鮮で用いられている。本文は昭和19年にかかれたもの。
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久保田豊 ウィキペディアWikipedia) より
久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 1986年9月9日)は、日本の実業家。
日窒コンツェルンの野口遵と共に、当時世界最大級の水豊ダムをはじめ、朝鮮北部に大規模なダムを建設した。戦後はコンサルタント会社日本工営社長を務めた。

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『教科書が教えない歴史』 藤岡信勝自由主義史観研究会/編 産経新聞社 1996年発行
地図好きが実現させた朝鮮の巨大ダム (一部抜粋しています)
皆さんの中には地図の好きな人も多いでしょう。地図をながめているうちに想像がふくらんできます。
戦後、日本工営社長として、世界各国で水力発電の開発に大きな貢献をした土木技術者の久保田豊も地図好きな一人でした。1924年大正13年)ごろ、当時日本の統治下にあった朝鮮を旅行した久保田は、大量の地図を買って帰国しました。そこから朝鮮の一大電源開発構想が生まれたのです。
ただし、構想を思いついたのは久保田自身ではありません。地図読みの名人といわれた先輩の森田一雄が久保田の地図を借りていきました。2ヵ月後、森田は久保田のところにやってきました。
朝鮮半島北部と満州の境目に鴨緑江が流れ下り、黄海に注いでいる。その支流の長津江と赴戦江をせき止めてダムをつくり、発電所を建設し、その水を反対側の日本海に流す。こんなプランを考えついたのだが、やってみる気はないか」
久保田はこの斬新な発想に感激しました。しかし、構想を実現するには資金と、発電した電気を使うところが必要です。久保田は化学肥料メーカー日本窒素(チッソの前身)の創設者で、森田の友人でもあった野口遵を口説き落としました。
1926年、日本窒素の全額出資により、まず赴戦江のダム建設事業がスタートしました。野口は電力を利用するための事業として、興南に科学肥料を中心とする大化学工場を設立しました。こうして土木技師久保田と、実業家野口の二人三脚による朝鮮の水力発電開発事業が始まったのです。赴戦江のダムは1929年に完成し、工事はさらに長津江、虚川江と次々に続けられていきました。
この一連の水力開発の白眉(はくび)は、鴨緑江本流の水豊ダムでした。久保田はこの計画に当たり、野口に最初は発電量5万キロワットという小規模な案をわざと提示しました。小規模な案には満足できない野口の気性を知っていたからです。案の定、野口は言いました。「なんだ、鴨緑江の本流をやるというから、大きな計画が出てくるかと思っていたのに、たった5万キロワットか。そんな小さな計画は、私はやらないよ」
久保田が作戦成功とばかり内心大喜びしたのはいうまでもありません。水豊ダムの計画は、琵琶湖の半分の面積をもち、世界最大の10万キロワットの発電機を7台も並べる巨大なものとなりました。日本の送電電圧の最高が15万ボルトの時代に、それを上回る22万ボルトの送電線で南朝鮮にまで電力を供給する大計画でした。
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1941年(昭和16年)、水豊ダムの第一期工事は完成し、後には水系全体の総出力200万キロワットに達しました。久保田らの電源開発は「朝鮮の産業革命」といわれる工業大発展の原動力となりました。安価な肥料によって米の面積当たり収穫量も1.5倍に急増しました。生活が豊かになり、強盗事件の発生率も10分の1に激減しました。