じじぃの「人の死にざま_1659_リヒャルト・アルトマン(生理学・ミトコンドリアの発見)」

細胞内のミトコンドリア

『面白くて眠れなくなる遺伝子』 竹内薫、丸山篤史/著 PHP研究所 2016年発行
種の起源」が出版された頃…… (一部抜粋しています)
モーガンが染色体の謎を解き明かしていた時代(1910年代〜1920年代)、まだ染色体の構造までは分かっていませんでした。ただし、タンパク質とデオキシリボ核酸(DNA)からできていることまでは、化学的に分析できていました。
ところが、サットンとモーガンの登場まで、染色体が遺伝に関係するとは、誰も想定していませんでしたし、ましてDNAが重要な存在であるとは、全く考えられていませんでした。そうした時代から始まる染色体研究の歴史を辿ってみましょう。
ネーゲリが細胞膜に染色体を見つけたのは、1842年でした。そのネーゲリから送れること、およそ30年、ヨハネス・ミーシェルが細胞核から初めて核酸を分離しました(1869年)。ダーウインが『種の起源』を出版し(1859年)、メンデルが研究発表した(1865年)。ちょうど同じ時代です。
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さて、ミーシェルの実験材料はヒトの白血球でしたから、病院から大量に出る、外傷患者の包帯に滲んだ膿から採取することにしました。膿には、白血球が多く含まれています。当時は、すぐに傷口が化膿しました。まだ医療現場に消毒の大切さが普及していなかったのです。しかし、なかなか膿で汚れた包帯から白血球細胞だけをキレイに分離できませんでした。
そこでミーシェルは発想を変えました。細胞を生かして物理的に分離するのではなく、細胞を溶かして化学的に分離・抽出したのです。ミーシェルは、その抽出物にヌクレインと名づけます。これが、後に、核酸と改称される物質です。
実は、ミーシェルは、ヌクレインをタンパク質の一種と考えていました。リン酸を多く含んでいたため、リンの貯蔵に関係するタンパク質と考えたようです。その後、ミーシェルはバーゼル大学に戻って生物学の教授になり、様々な業績を上げますが、ヌクレインについては学会からの注目も無く、研究も進みませんでした。常に寒い実験室で仕事に根を詰めすぎたためか、彼は結核を患い、1895年に51歳の若さで亡くなってしまいます。
ミーシェルの抽出したヌクレインから、完全にタンパク質を除去し、厳密な意味での拡散を抽出できたのは、ミーシェルの弟子、リヒャルト・アルトマンでした(1889年)。核酸と改称したのもアルトマンです。
ちなみに、アルトマンは、当時の光学顕微鏡で見えるギリギリの解像度で、顆粒状の細胞内小器官(ミトコンドリア)を見つけるなど、大きな業績があるにも関わらず、あまり英語や日本語の資料がありません。ドイツでも有数の医学部を持つライプチヒ大学で、臨時の解剖学教授まで務めたほどの人物ですが、過小評価されている理由は不明です。アルトマンも、1900年に58歳で早逝しました。