じじぃの「神話伝説_151_反ナチスの人々(キリスト教会)」

deutsche kristen movement nazi church 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=S7fR8bWrVf4
ローレンツ教会

反ナチ運動 ウィキペディアWikipedia)より
キリスト教界においては、ディートリヒ・ボンヘッファーらの告白教会が、ドイツ的キリスト者を代表とするナチス追随者に抵抗した。
比較的ナチスの影響が低かったドイツ国防軍内では、ルートヴィヒ・ベックやハンス・オスターを中心とする反ナチス派の将校勢力が残存していた。彼らの勢力は後にゲシュタポによって「黒いオーケストラ」と呼ばれる。さらにヴィルヘルム・カナリスをトップとする国防軍情報部(アプヴェーア)にも反ナチスの人々が多く存在していた。カール・ゲルデラーら一部政治家も彼らと連携をとっていた。またヘルムート・ジェームズ・フォン・モルトケは、官僚など比較的地位が高い反ナチ的な人々を集めた会合を開いていた(クライザウ・グループ)。

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ヒトラーに抵抗した人々 - 反ナチ市民の勇気とは何か』 對馬達雄/著 中公新書 2015年発行
反ナチ抵抗市民の死と<もう1つのドイツ> (一部抜粋しています)
1944年7月20日に決行されたヒトラー暗殺の軍事クーデターは、ヒトラー生存の事実によってその日のうちに瓦解した。連携して決行されたシュテュルプナーゲル将軍たちのパリ、ウィーンでのクーデターも失敗した。同日夜11時過ぎのはベルリンでベッグの自決後、オルブルヒト大将、シュタウフェンベルグ大佐、副官ヘフテン、メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐の4人が処刑された。当日夜から幾度も予告されていたヒトラーの談話は21日午前1時から全国放送された。
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モルトケ(反ナチス活動家)は、1944年1月19日に逮捕されていた。《7月20日事件》の半年間に拘禁されていたということもあり、モルトケと事件の関わりやグループの存在にも気づかれていない。またドイツ人ならば誰でも知っているモルトケ元帥の末裔ということもあって、ベルリン北方11キロメートルのラーヴェンスプリュック強制収容所の独房生活にも配慮されていた。だが、《7月20日事件》以降、処遇は一変して過酷になったという。
一方、7月4日、5日に逮捕拘留されていたライヒヴァインとレーバーの処遇は、最初からきびしかった。彼らには、当初ゲシュタボが徹底的に壊滅しようとしていた共産主義者組織の嫌疑が向けられていた。だがクーデター事件後には尋問内容も変わった。
事件の調査責任者カルテンブルンナーが7月28日から毎週数回ヒトラーに提出する調査報告に、『カルテンブルンナー報告者』という文書がある。8月15日の報告者にはじめて「モルトケのグループ」という言葉が登場するが、19日の報告者ではライヒヴァインもこのグループとの関わりで言及されるようになり、25日の報告者になるとようやくモルトケをとりまく反体制グループ《クライザウ・サークル》の名前が出ている。さらに31日には「クライザウ・サークルのミュンヘン支部」と記述され、全体像も知られて逮捕の網が張られるようになった。
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すでにみてきたように《クライザウ・サークル》の人びとは共通して敬虔なキリスト者であった。社会(民主)主義者だから宗教否定と決めるのは間違いである。共産主義者とそこが違う。ライヒヴァインにしろ、ハウバッハにしろ、彼らは思想的にもパウルティリッヒの、キリスト教の隣人愛を社会主義理想の根源とみて現実社会の諸問題に立ち向かう「宗教社会主義」に強い影響をうけていた。
もちろん彼らにとって宗教的信仰は個人にとどめおくものであり、国家にまで拡大すべきものではなかった。すでに社会全体の世俗化は避けがたく、それを押しとどめることは不可能であった。ドイツのばあい、帝政期まで教会(とくにキリスト教信徒の3分の2を占めるプロテスタン=福音派の教会)は国の教会という立場にあったが、それもワイマル憲法で廃止されるようになった。信教の自由は基本的人権の一部であり、宗教的に寛容な態度も価値とみなされた。
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ナチ政権は党シンパ「ドイツ的キリスト者」の「帝国教会」派を後押しし、福音派教会全体をナチ化しようとした。告白協会はそれに反対して結成された。それは信仰闘争として始まったが、ユダヤ系信徒を庇護する反人種闘争、教育界からの聖職者の排除に反対する教育闘争の側面もあった。これにさらに障害者抹殺への高位聖職者たちの抗議、戦争協力の説教の拒否という行動も加わった。この点ではカトリック教会も同様である。
これにたいしてナチ当局は逮捕、強制収容所への拘禁、教会財産の没収、さらに戦時下には懲罰的な前線送りなどの弾圧をもって応じた(福音派のばあい牧師総数1万9000人中、3000人が投獄され、約8000人が兵役に就き1858人が戦死したという)。また1937年以降、ドイツ社会に反宗教の機運をつくろうと、ヒトラーユーゲントを先兵にした教会の排斥運動、宗教教育放棄のキャンペーンも大々的に繰り返されていた。
にもかかわらず、帝国教会をのぞく福音派教会とカトリック教会はナチズムに順応せず、キリスト教信仰を守る唯一の砦、ナチ化されない存在でありつづけた。しかも戦況の悪化とともに、教会離脱者が減り、逆に教会信者が増えていった。そのためヒトラーの意をうけて、強硬論者の党官房長ボルマンも教会解体を戦後の課題に先送りしたという。