新島八重 紙芝居 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=opgqBHkeUDs
新島八重 ウィキペディア(Wikipedia) より
新島 八重(にいじま やえ〈やゑ〉、弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期の日本の女性。同志社創立者の新島襄の妻として知られる。
旧姓は山本。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては新島八重子と書かれる場合もある。勲等は勲六等宝冠章。皇族以外の女性としてはじめて政府より受勲した人物。
弘化2年(1845年)、会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の子として誕生する。慶応元年(1865年)、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚。慶応4年/明治元年(1868年)に会津戦争が始まると、鉄砲を主力に戦うべきと考え刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪・男装して家芸であった砲術をもって奉仕し、鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した。
明治9年(1876年)1月3日にアメリカン・ボードの宣教師ジェローム・デイヴィスの司式により新島襄と再婚した。
八重は多くの功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されたが、その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は徳富蘇峰の協力により「同志社社葬」として執り行われ4,000人もの参列者があった。
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『「歴史」の意外な結末―事件・人物の隠された「その後」』 日本博学倶楽部/編 PHP文庫 1998年発行
会津藩の砲隊指揮を務めた山本八重 新島襄の妻となる (一部抜粋しています)
幕末維新の戊辰戦争(1868〜69)のとき、幕府側についた東北地方の諸藩のなかで、もっとも激しく抵抗したのが会津藩。
その会津の鶴ヶ城の籠城戦で、砲隊の指揮を務めていた女性がいる。山本八重という22歳のうら若い女性だ。
彼女は、砲術師範の山本権八の娘で、父や兄の影響で大砲や鉄砲の心得があり、勝ち気な性格でもあった。
19歳のときに山本家に寄宿していた川崎尚之助と結婚してから、鉄砲をもつことを父に禁じられていたのだが、味方の敗色が濃くなってきたのを感じると、父の留守中に、また銃の練習をするようになっていた。
そして、1868(慶応4)年9月14日に西軍の総攻撃がはじまると、その2日から21日まで、夫に頼まれ、砲隊の指揮をとったのである。
藩主の松平容保が降伏して、23日に開城となったとき、「女と子供は放免されるが男は切腹」とウワサが流れるなか、男装して戦っていた彼女は、男たちとともに潔く最期を迎えたいと、男たちの列に交じった。が、女とばれて放免される。
その後彼女は、1871年(明治4)年、死んだものとあきらめていた兄が京都にいることがわかり、上京。兄の勧めで、「新英学校及女紅場」という女学校に入学した。降伏のとき生き別れになっていた夫とも再会できたが、夫婦仲はもう終わってしまっていた。
上京して4年目から、彼女はキリスト教に興味をもつようになり、まもなく、同志社大学を創設する新島襄と出会う。1876(明治9)年、京都初のキリスト教の洗礼式を受けて、翌日、キリスト教による結婚式を挙げ、ふたりは結ばれた。
その後は、新島襄に内助の功を尽くし、新島の死後、日清日露の両戦争で、赤十字社の
篤志(とくし)看護婦として働いて、勲二等を受章している。