じじぃの「人の死にざま_1610_古川・宣誉(オマーン・軍人)」

オマーン建国45周年、祝賀ムードの首都 Celebrations for the 45th National day in Oman 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6LN4QG3TPoE
ありえへん∞世界 「99%行かない!世界の秘境の国」 2014年3月18日 テレビ東京
【レギュラー出演】美輪明宏ベッキー 【ゲスト】高橋克典宮崎美子
▽中東の絶対王政旧ソ連 最古の国に大潜入
オマーンは、東日本大震災で10億円もの義援金を寄付した。兵庫県加古川市には、オマーン国王と結婚した日本人女性・大山清子の墓がある。オマーン国王は、弟に王位を譲って来日し、大山清子さんと暮らし、一人娘のブサイナ妃が生まれた。ブサイナ妃は戦争中は来日できなかったが、戦後39年ぶりに来日し、母親の墓参りをした。
http://www.tv-tokyo.co.jp/ariehen/
古川宣誉 ウィキペディアWikipedia) より
古川 宣誉(ふるかわ のぶよし、1849年4月2日 - 1921年)は、幕末の幕臣、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧名、善助・郁郎。なお孫に昭和を代表する喜劇役者古川ロッパがいる(宣誉の長男の養子)。
1880年明治13年)、吉田正春らと共にペルシア(ガージャール朝)に派遣された。その後、熊本鎮台工兵第3大隊長陸軍士官学校教官などを歴任。
オマーン ウィキペディアWikipedia) より
現国王スルタン・カーブースの祖父に当たる先々代国王スルタン・タイムールは退位後日本人の大山清子と結婚しており、2人の間の子がブサイナ王女である(現国王スルタンカーブースにとっては叔母にあたる)。

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『すごいぞ日本人! 続・海を渡ったご先祖様たち』 熊田忠雄/著 新潮社 2009年発行
オマーン/マスカット
アラビア半島の東南の角にオマーンという国がある。古くは「アラビアン・ナイト」に登場する船乗りシンドバッドが、この国の港から出航したとされることで知られ、近年ではサッカーのワールドカップ予選などを通じ、この国と日本がしばしば対戦したことから、その名を耳にする機会も増えた。
現在アラブの国と聞けば、日本人は即石油の輸入先と思いがちだが、この国と日本は近年、意外なモノを通じて深く結ばれている。意外なモノとは何か。それは日本人が日頃、天ぷらや胡麻和えにして口にするあのインゲン豆である。
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オマーンを訪れたことが明らかに判明している最初の日本人は、明治13(1880)年、当時のペルシャへ向かう途中に立ち寄った軍人の古川宣誉で、マスカット上陸をその著『波斯紀行』に記している。波斯とは漢字でペルシャのことをさし、オマーンには阿曼という字を当てる。
当時古川は陸軍参謀本部の大尉で、明治政府がペルシャに派遣した外務省理事官の吉田正春を団長とする使節団に加わった。一行は明治13年4月5日、当時わが国最新鋭の戦艦比叡で日本を出発したが、途中の香港で古川ら2人を除いて吉田らが比叡を降り、船足の速い外国船に乗り換えて一足先にペルシャ入りすることになった。それはペルシャではこの時期、暑熱が日に日に厳しさを増しており、吉田は一刻も早く現地入りし、案内してくれる担当者と打ち合わせをしたいと考えたからである。
その後、比叡がインドのポンペイ(現ムンバイ)に寄港した時、ペルシャに寄港した時、ペルシャに先乗りしていた吉田から古川のもとへ1日も早く当地に来るように督促する電報が届く。そこで古川もまた比叡を離れ、別の民間船でペルシャに向かったが、その船がオマーンのマスカットに寄港したのである。
吉田を乗せたイギリス郵船がマスカットの港に入ったのは6月25日の正午過ぎ、天気は晴れ。気温は華氏90度(摂氏で32度)であった。町はごつごつとした高い岩山を背にし、湾を取り囲むように広がっていた。マスカットとはブドウの品種名ではなく、現地語で「山が海に落ちるところ」という意味である。岩山の上には砲台が築かれ、港を見下ろしている。乾ききった町に緑の草木はなく、わずかに椰子の木が6、7本あるのみだ。当時の町の人口について古川は700人余と記す。町の中には王宮やイギリス、フランス、アメリカの領事館がある。領事館と言ってもイギリスの場合、領事が1人駐在するに過ぎず、民間人もイギリス商人が1人居住するだけであった。
建物は日干し煉瓦で造られ、家と家の間は強い日光を遮断するため屋根で覆われており、町全体が建物の中にあるようだ。中心道路の幅は2メートルほどしかなく、そこを人馬が通行する。商店にはわずかばかりの布製品や雑穀食物が並んでいた。古川はマスカット市内を見物したのは、厳しい暑さもあってわずか3時間ほどで、その晩、この地を離れた。