じじぃの「人の死にざま_1603_平沢・貞通(帝銀事件・画家)」

日活映画「帝銀事件 死刑囚」 動画 Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/xlbja7_%E6%97%A5%E6%B4%BB%E6%98%A0%E7%94%BB-%E5%B8%9D%E9%8A%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%9B%9A_shortfilms
No.052 12人の行員を毒殺した銀行強盗・帝銀事件
帝国銀行・椎名町支店に現れた男は、言葉巧みに行員たちに毒物を飲ませて12人を殺害し、金と小切手を奪う。犯人として逮捕されたのは、全くの無実である「平沢貞通(さだみち)」である。一貫して無実を訴え続けるが、平沢には死刑判決が下された。
http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/052teigin.htm
平沢貞通 ウィキペディアWikipedia)より
平沢 貞通(ひらさわ さだみち、1892年(明治25年)2月18日 - 1987年(昭和62年)5月10日)は、日本のテンペラ画家。北海道小樽市出身(東京府生まれ)。雅号は大翮(たいしょう)、後に光彩(こうさい)。
戦後の混乱期に発生した大量毒殺事件である帝銀事件の犯人として逮捕され、死刑が確定する。だが刑の執行も釈放もされないまま、逮捕から死までの39年間を獄中で過ごした。
長年宮城刑務所に収監されていたが、その後高齢のため体調を崩し、1987年5月10日に八王子医療刑務所で肺炎を患い獄中で病死した。95歳没。39年間に渡る獄中生活は1万4142日を数え、確定死刑囚としての収監期間32年は当時の世界最長記録であった。

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昭和史の謎を追う 下』 秦郁彦/著 文藝春秋 1999年発行
帝銀事件の犯人は? (一部抜粋しています)
ルソーの絵が初めて世に出たとき、パリジャンたちはシロウトの稚拙な絵だと嘲笑したそうだが、江国流に連想を働かせると、帝銀事件もプロの巧緻とアマの粗雑さが入りまじった不思議な犯罪だった。
つまり、16人の銀行員を集めて、その面前で薬瓶からピペット(スポイト)で致死量すれすれの生産化合物溶液を茶わんに注ぎわけ、1分後に第2薬(水)を飲ませ全員を倒したのは、なまなかのプロでもできぬ腕の冴えといってよい。
ところが、犯人は犯行後に手近のテーブルなどから18万円余の現金と切手を持ち去っているが、棚や半開きの金庫にあった80万円余の現金には手をつけなかった。さらに翌日には安田銀行の板橋支店で、1万7千円余の小切手を換金するために顔を出している。
操作当局のミスで小切手の手配がおくれた偶然の虚に乗じたので成功したのだが、プロの犯罪者にしては間が抜けていると評せざるをえない。
それに、犯人は前年の1947(昭和22)年10月と、事件から1週間前の1月19日に安田銀行荏原支店と三菱銀行中井支店で、似たような手口の未遂事件(リハーサル?)をやり、計4回の出現で40数名に顔を見られていた。
事実、捜査当局は目撃者の観察を総合して詳しい人相書を作り、わが国では初例となったモンタージュ写真を合成して、全国に手配した。このモンタージュは、さまざまな悲喜劇を生んだ。似た人物を知っている、というタレこみ情報が捜査本部へ殺到したからである。その結果、警察が洗った容疑者は5千人とも8千人ともいわれるが、いずれも空振りに終わった。
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事件と捜査・公判の経過はよく知られているので省略して、ここではシロかクロかの決め手に関わる論点を、いくつか箇条的に抜き出して考察する程度にとどめたい。
シロの有力材料
1 青酸化合物の特定ができず、その入手経路が不明
  事件直後の法医分析では使用した毒物は「青酸化合物」としか判定できず、第二次世界大戦中に陸軍の登戸研究所(第九技術研究所)が開発した遅効性の青酸二トリール(別名アセトンシアンシドリン)ではないか、との有力な見解もあった。
  捜査陣は主として平沢の自白から市販の青酸カリと断定したが、入手経路を確認しえず、判決文では「被告人がその頃所持していた青酸加里」と認定した。
  もっとも高木一主任検事は、満州から引きあげた平沢の長女が持ち帰ったことを突きとめていた、とのちになって語るようになる(たとえば平沢死亡直後の1987.5.12付朝日新聞
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このようにシロクロ双方の材料を並べてみると、シロ有力の材料が多くなるが、それも視点を少しずらせるとクロに逆転しかねない要素を持つものばかりである。1の青酸カリの出所もそうだし、3のアリバイも、平沢が西武池袋線を利用していたらと想像する余地がある。
ところがクロの方も公判の冒頭で「高木検事の催眠術にかけられたのです」と述べた平沢の陳述が代表するように、すべてコルサコフ氏病の後遺症だったと想定すれば総崩れになるし、致命部ともいえるカネの出所も、証明できない点では捜査当局も同様ではないかと反論がでよう。
どうやら平沢のシロクロ論争は、面通しの初印象がそうであったように、決め手の欠けた不毛の結末となりそうである。